市川いっかさつがい 犯人。 くつろぎ喫茶「種子島」裏路地離れ店

青空てにをは辞典 「~であろう」

市川いっかさつがい 犯人

間もなくして父親の功二さん 42 が帰ってきた。 いつもより早い帰宅だった。 強姦の途中ではあったが、光彦は包丁を持って功二さんを待ち伏せ、いきなり左肩の辺りに包丁を突き刺した。 悲鳴を上げて功二さんが床に倒れる。 「現金でも通帳でもいいから200万出せ!」 倒れた功二さんを足蹴にしながら光彦が叫ぶ。 功二さんは家族を守るため、通帳と印鑑の入った引き出しを教えた。 口座に入っていたのは、銀行と郵便局を合わせて約360万。 「もっとあるだろう!」欲にまみれた光彦は更に上を要求した。 「 会社の 事務所に通帳と印鑑がある・・。 」重症を負いながらも功二さんは答えた。 「取りに行くぞ! 親父の会社に電話しろ!」 もはや抵抗する気力の失せていた少女は、言われるままに功二さんの勤務先である編集プロダクションに電話し、これから通帳を取りに行くことを告げた。 しかし少女が家に帰ってみると、無情にも功二さんはすでに殺されていた。 一足先に帰った光彦がとどめを刺していたのだ。 朝になり、少女の家の電話が鳴った。 昨日行った事務所の人が心配して電話をかけてきてくれたのだ。 電話にはいったん出たものの、光彦に強引に切られてしまった。 「余計なこと話すんじゃねえ!」と、少女を怒鳴る。 怖がった妹の宇海ちゃんが泣き始めた。 「うるせえ!黙れ!」光彦は、泣いている宇海ちゃんに腹を立て、身体をつかんで背中から包丁を突き刺した。 包丁は胸まで貫通した。 「痛い・・痛い・・」と苦しんでいる宇海ちゃんに対して、光彦は少女に「お前がとどめを刺してやれ!」と命令する。 しかし少女が硬直して動けないでいたため、光彦が首を絞めて殺した。 妹まで殺されて、少女はここで初めて光彦に抵抗したが、「お前も殺されてーか!」と、逆に包丁で腕や背中を切りつけられてしまった。

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吉川英治 大岡越前

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4月11日の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」もその3になります。 今回は、日永の追分からいよいよ伊勢街道に入ります。 日永の追分で、スタートから5. 4㎞、時刻は11時15分。 スタートしたのが9時半でしたから、1時間45分ほど歩いてきました。 寄り道をかなりしていますから、こんなペース。 実測ルートマップでは、日永の追分と書いたところの東にある三叉路がそれです。 旧東海道は、ここから南西へ向かい、伊勢街道はここが起点で南へ下っていきます。 西から東を向いて撮った写真(逆光です)。 鳥居が見えています。 これは桑名の七里の渡しに建てられた「伊勢一 の鳥居」に対して「二の鳥居」と呼ばれました。 鳥居は、安永3(1774)年に一志郡須ヶ瀬村(現在の津市)出身の伊勢商人渡辺六兵衛が東海道を往来する人のために遥拝鳥居として建てさせたのが最初です。 その後たびたび建替えが行われ、現在のものは、平成28(2016)年10月に、伊勢神宮の遷宮にあたり、内宮の別宮である(いざわのみや)の鳥居を移建して建替えられました。 当初は伊勢街道をまたぐように建てられていましたが、現在は伊勢街道が鳥居の横を迂回して、鳥居を くぐらずに進めるようになり、また、昭和48(1973)年の移建時に周りが公園化されました。 現在の追分には、常夜燈、道標、清めの手水所があります。 元々あった道標は、明暦2(1656)年に建てられたもので、現存する灯街道の道標としてはもっとも古いものです。 これは、現在は、日永神社の境内に移されています(日永神社で見て来ました)。 今あるものを見ると、嘉永2(1849)年に桑名・魚町の尾張屋文助が建てたとあります。 現在、桑名・魚町に尾張屋という屋号の店はないと思いますが、近くの吉津屋には仏壇屋さんが、北寺町には酒屋さんがそれぞれ同じ屋号であります。 常夜燈のひとつは奉献時から存在したと推定されます。 手水所。 この水は、西に位置する丘陵地(泊山(登城山))からの湧水です。 昭和4(1929)年、地元実業家・稲垣末吉が、泊山に別荘を建てた時、掘った井戸からとても良い水が湧き出したので、自費で配管を敷設して、日永の追分まで引き、旅人達に供したのだといいます。 稲垣末吉の頌徳碑が、日永小学校にありました。 「追分鳥居の水」と呼ばれ、名水の評判が高く、たくさんの人が汲みに来ます。 写真にも女性がお一人、汲んでいらっしゃいます。 伊勢街道に入りましたが、内部川を越えるまで立ち寄りポイントは指定されていません。 左の写真は、伊勢街道に入ってす ぐ、小古曽と大治田の間あたり。 今は工場地帯になっていて、あまり味気ない道を2㎞ほどひたすら歩く積もりでしたが、途中で表忠碑と平和の礎を見つけました。 大治田三丁目のところ、道の向かい側でしたから、ズームで撮影。 向かって右(南)が表忠碑。 大正3(1914)年3月に河原田村が建立したもの。 明治10(1877)年の、明治 27・28年の、明治33年の(義和団の乱)、明治37・38年のの際の、河原田地区内忠死者16名と従軍者69名の名前が刻まれています。 向かって左の平和の礎は、もとは昭和30(1955)年5月に河原田小学校に設置されたものを、平成23(2011)年11月、ここに形を変えて建立されたもの(河原田地区遺族会による)。 西南の役、日清戦争、日露戦争、、の際の河原田地区内戦死者113名の名前が刻まれています。 7㎞を過ぎて、内部川を渡り、河原田の町に入ります。 伊勢街道には木造の橋がかかっていたのですが、現在はありません。 県道103号線の橋に迂回します。 左の写真は、河原田に入ったあたり。 又兵衛橋という名前の何やら由緒 のありそうな橋を渡っていきます。 名前の由来は、橋の改修に尽力された石崎又兵衛という方からきているそうです。 昭和13(1938)年に鉄筋コンクリートで造られ、当時としては、数少ない石橋で河原田自慢の橋であったといいます()。 河原田小学校の手前、采女道との交差点に「里程標(距離標)」があります。 「距 名古屋市 十五里十一町 守山町 十七里十五町」、「距 宇治山田市 十七里四町 久居町 八里三十二町」、「距 津市 六里三十二町 海蔵村 二里八町」と刻まれています。 中央あたりで割れたのか、継いだ跡があります。 このあと、若干迷い、指定されたコースよりも早めに曲がってしまい、河原田神社に行くまでにちょっとウロウロしました。 これは二の鳥居。 一の鳥居はあとで見ることになります。 明治42年に南北河原田及び内堀各村6 社を合祀して創建されました。 貝塚境内に山ノ神が4基あります。 この鳥居からそのまま境内に行くとなると、右の写真のようにかなりの階段を登らねばなりません。 そこで、向かって左手にある迂回路を上っていきました。 河原田神社の境内にたどり着く直前に、三神山毘沙門天があります。 ここについては、説明板もなく、また、ネットでも情報は出てこず、詳しいことは分かりません。 河原田神社の拝殿。 明治42(1909)年6月、八幡社(河原田村大字内堀中屋敷)と須賀社(河原田村大字貝塚字一ノ縄)を三神社(河原田村大字河原田字三神山)へ合祀し、村社河原田神社と改名しました。 平成10(1998)年12月火災により本殿、拝殿、社務所を全焼し、平成12(2000)年に再建されています。 ご祭神は、、、(ミツハノメノカミ;伊奘冉尊が火神を生んで病んだとき、その尿より生まれ、水の神としてまつられます)、、、、、、、、、、の他、神社検索三重のサイトによれば、不詳八座とあります。 合祀していますから、たくさんの神様がいらっしゃるのは分かりますが、それぞれなぜここに祀られているのか、分からないところもあります。 河原田の西部にある丘陵地帯は、その昔海だったそうですから、上筒之男命ほか住吉三神(すみよしさんじん;海上交通安全の神)が祀られているのはよく分かります。 境内、拝殿に向かって右には、山の神と刻まれた石が4つ。 町内にあったものがここに合祀されたのだと思います。 今では、ど こに祀られていたのかも定かではないかも知れません。 拝殿の北には、頌徳碑が2つ。 向かって左は、「熊沢市兵衛翁頌徳碑」です。 熊澤家は農家で河原田の旧家で地主で、代々津藩・藤堂家の御金御用達の役を務めていました。 熊澤市兵衛は幕末に庄屋などを務めており、戊辰戦争で『撒隊士』という身分で東征にしたがい、明治になって四日市に帰郷しました。 明治時代に若くして三重県議会議員になり、河原田村の村長などの名誉職にも就いています。 は、農村出身の農民の家柄でしたが、勉学の必要性に気づき学問を重視していました。 明治42(1909)年には河 原田尋常高等小学校の建築費の一部を寄付しています。 大正時代、皇太子であった裕仁親王の成婚時には、河原田尋常高等小学校の講堂を新築する費用の寄付と、入学志願者が少なくて不振だった三重郡立農学校(現・三重県立四日市農芸高等学校)に対しても、長男のと協力して3万円と広い敷地を寄付しました。 さらに、『熊沢奨学資金』を新設して、貧困家庭の子供たちの学業の補助をしています。 また、河原田地区の西部丘陵地帯には、明治後半に熊沢市兵衛翁がみかん栽培を伝え、今も「河原田みかん」として親しまれています。 境内には、他に「神武天皇遙拝所」がありました。 は橿原市の畝傍山(うねびやま)の北東にありますからそちらの方角を向いていると思います。 続いて、河原田神社の西隣にある「忘帰處(ぼうきしょ)」へ。 河原田神社のある三神山頂上にあります。 こ こから見る眺めは河原田随一の景勝地だそうで、伯爵が熊沢市兵衛翁宅を訪れた際に、この地の風景の美しさに見とれて帰ることを忘れたということから「忘帰處」と名づけられています。 標高41mあまりの山上に建てられている記念碑は、伯爵自らの筆によるもので、昭和8(1933)年10月、88歳になった熊沢市兵衛翁が建てています。 山上からの眺めは一望千里に渡り、晴れた日には、知多半島から木曾御岳の山並みも望み見ることができる絶好の名勝地です。 この写真が、「忘帰處」から見た東の方角。 この日は、説明にあったように、木曽御嶽山もよく見えていまし た。 しかし、樹木がかなり茂っていて視界を妨げていました。 右の写真は、「忘帰處」の石碑(右上の写真)のところに上がって眺めたもの。 こちらの方が、当たり前ですが、よく見えます。 見とれて帰るのを忘れるという気持ちは何となく分かります。 「忘帰處」の石碑の背後には、「宇賀御魂神」と刻まれた石碑が建っています。 「神社」とあるのかも知れませんが、確かめ られません。 に関わるものと思いますが、これについての説明はなく、詳細は不明。 忘帰處でしばし休憩していましたが、帰るのを忘れないうちに、降りて次の目的地へ向かいます。 帰りは、あの急な階段を降りて、正面の参道に出て来ました。 なかなかよい感じの神社でした。 伊勢街道に戻り、四日市農芸高校や、JR関西線・河原田駅の近くを通って進みます。 実測ルートマップは、その3に入っていました。 河原田神社、忘帰處あたりでスタートから8㎞。 12時20分過ぎ。 食事をするようなところもありませんので、鈴鹿市駅についてお昼ごはんにすることとし、歩き続けます。 9㎞を過ぎて、鈴鹿市に入ったあたりに、臨済宗妙心寺派の善誓寺がありましたので、ちょっと立ち寄らせてもらいました。 し かし、由緒書きなどもなく、ネット検索でもこれという情報は出て来ません。 鈴鹿に入ったところで、それなりに切りもよいので、その3はここまで。 その4で鈴鹿に入ってから見てきたところを書き、ゴールする予定です。 世間ではというか、マスコミでは「平成最後の日」で盛り上がっています。 私自身としては、いささかの感慨はあるものの、 普段と同じ1日という感じで過ごしていました。 「いささかの感慨」というからには、それなりのことがありますが、あとで触れます。 「普段の1日」というのは、ブログのタイトルの下にも書いてありますように、「淡々と飽きもせず」というのをモットーの1つにしているからです。 具体的には、雨模様の1日でしたし、5月3日(金)に相談会を予定していますので、その準備に勤しみ、合間にメダカの水槽の水替えをしていたという次第。 「いささかの感慨」というのは、平成2年4月に結婚しましたので、私にとって平成というのは、自分の家族を形成し、発展してきた時代ということが大きいように思います。 また、平成を迎えた年は、最初の職場である国立療養所S病院に奉職していましたが、平成4(1992)年には、N市立大学に転職。 教育研究の仕事に就くのは、元々の希望でしたので、それが叶ったということでした。 転職先は、短大でしたが、平成11(1999)年には4年生の学部に改組。 この年、学位を取得でき、教授職に昇格しました。 平成15(2003)年には、本務先は大学院を設置し、私もその教員を兼担することになり、仕事の面では充実しました。 しかし、多忙を極め、勤務先から寝るために自宅に通うような、尋常ではない状況が続いていました。 それが祟ってか、平成16(2004)年頃から体調が悪くなり、平成17(2005)年になっていよいよ体調不良を来たし、病休や休職をせざるを得ない事態に陥りました。 その後は復職や休職を繰り返す羽目になり、あちこちに迷惑をかけるとともに、不本意な時期が続きました。 平成23年(2011)年秋に至って休職が許される期間が満了し、退職せざるを得ませんでした。 治療は続けていたものの、それは奏功せず、悶々とした日々を過ごしていました。 体調不良の原因が明らかになったのは、平成26(2014)年8月でした。 あるホルモンが不足していたことが明らかになり、その補充療法を受けてようやく体調が回復したという次第。 このとき、退職から3年近く経ち、すでに59歳。 社会復帰するにはやや遅く、また、そのタイミングも失っていましたので、やむなくそのままの生活を続けました。 その後、縁あって、江戸橋方面で非常勤の仕事を得られ、今日に至っています。 また、この間、いくつかの研究会に関わったり、研修などの講師を依頼されることもあり、また、地元自治体で特別支援教育関係の仕事にも携わる機会を与えられました。 何事も現実を受け容れることから始まると思っていますし、自分の身に起こることは、自分の身の丈に合っているのだと思うようになりましたので、これがちょうどよいと思って過ごすようになっています。 今は与えていただいた、決して多いとはいえない仕事をしつつ、散歩やバードウォッチング、写真撮影、鉄道会社主催のハイキング、ウォーキングへの参加、歴史散歩、読書で日々を過ごすようになりました。 自分ではお気楽に過ごしているとは思ってはいませんが、世間の皆様から見れば、悠々自適と見られるかも知れません。 いつの間にか60歳代半ばに至っていますから、今さら慌てるとか、焦るとかそういうことはしないで日々を楽しみ、お役に立てることがあればそれなりに貢献したいと考えています。 しかし、自分がする意味がないと思えることや、無理だと思えることはしないで済ませたいとも思っています。 論語にあるように「四十になってあれこれと迷わず、五十になって天命をわきまえ、六十になって人のことばがすなおに聞かれ、七十になると思うままにふるまってそれで道をはずれないように」というのは理想なのでしょうが、未だに迷い、天命をわきまえているとはいえず、人のことばも素直に聞いているとはいえませんが、思うままに振る舞って道を外れないようになれればありがたいと思います。 皆様には、令和の時代を迎えても引き続きご交誼のほど、お願い申し上げます。 平成も残すところあと2日、などと柄にもないことを書いています。 それなりの感慨はありますが、大騒ぎすることはないと思っ ています。 天気は下り坂ですが、日中は大丈夫ということで、いつも通りの日課。 8時半から11時頃まで、住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、寺町、田町と散歩というか、巡回というか、してきました。 6㎞ちょうど。 九華公園のつつじは、天候が安定しないせいか、開花があまり進みません。 いつもの年なら、公園内すべてで満開になっているのですが、今年はバラツキがかなりあります。 早くに咲き始めたつつじでは、もう花が傷んできてしまっています。 新しい管理人さんとよく話すのですが、神戸櫓跡に1本だけ、赤い花が咲くつつじがあります。 前から注目していて、これを何とかきれいに撮りたいと思っていますが、なかなかうまく行きません。 今日は、曇天ですからさらに難しい。 天気が回復してからではどうかと思い、今日の写真を載せます。 「何の写真?」とお思いでしょう(笑)。 揖斐川と長良川の中洲です。 昔から「十万山」といわれています。 ここに毎年、オオ ヨシキリがやって来ます。 数日前から声がしていたような気がしますが、今日、ハッキリ確認しました。 「ギョギョシ ギョギョシ ギョギョシ」といった鳴き声です。 ただ、まだ数が少ないですし、距離がありますから、カメラの動画で撮っても鳴き声は聞こえないと思います。 右は、去年5月11日に三ツ又池公園で撮った()。 九華公園は相変わらず静かです。 天候もスッキリしませんから、散歩の人も少なく、鳥もいません。 しかし、鳥の雛の姿が見られるようになり、ちょっとだけ嬉しい(微笑)。 奥平屋敷跡で、カワラヒワがいるなと思って撮ったのが、この写真。 遠いところから超望遠コンデジで。 色からして、カワラヒワの雛でしょう。 人に対する警戒心もまだ薄いようですし、餌をとるのに注意が向いていたと思われます。 無事に育って、また楽しませて欲しいと思います。 カモはまだまだ12羽が滞在中。 キンクロハジロのみ。 もうあまり目を向ける人もいません。 朝早くに餌を与える人はいるかも 知れません。 カモたちはのんびり過ごしているように見えます。 二の丸跡や、本丸跡では、コゲラが餌探し。 2羽が、公園内を移動していました。 営巣してくれるときもあるのですが、今年は巣は見つけられていません。 巣といえば、辰巳櫓跡の西に鳥の巣が落ちていました。 枯れ草と羽毛でつくられています。 いつも持ち歩いているコクヨの 「」と比べてみると(ちなみに、を使っています。 5cm)、直径8cmくらい。 お椀のような形をしています。 このあたりは松の木が生えているところ。 エナガやシジュウカラは、巣材にコケを使うようですから、これらの巣ではなさそう。 カワラヒワは、枯れ枝や細根等々を使って椀状の巣を造るといいます。 九華公園で見られる鳥からすると、カワラヒワの巣かという気がします。 ので調べてみますと、次の条件で検索した結果、「お椀の縁が厚め、巣材に枯草等」であるのは、カワラヒワと候補が挙がってきました。 市街地の鳥 巣の場所は:樹上、枝上 巣材は:枯れ草・コケ 巣の形は:お椀形 大きさは:直径13cm未満 さて、このあとは、ツバメの巣チェックの結果。 左の写真は、京町の呉服屋さんにある巣。 3つあるうちの1つに、親ツバメが出入りしたり、座っていたりし ます。 何か咥えているのですが、ヒナはいないようです。 右は、田町にある商店の巣。 ここは2つあるうちの南側の巣にツバメがいます。 泥を咥えて、修復作業中に見えました。 田町にある別のお宅の巣。 去年は使われていませんでした。 ここも泥を咥えてきて、修復中のようで、2羽が出入りしていました。 今のところ、9ヶ所ほど見ている中で、この3ヶ所で営巣しそうな様子です。 天皇陛下の代替わり、改元の頃は、雨模様のようです。 相談会の準備をスピードアップしなければなりませんので、連休ではありますが(私のような立場では、連休も何も関係はないのですが……)、励まなくてはなりません。 ゴールデンウィークですから、ハイキングが終わったら家内の実家へ行って、義母に会ってこようということもあるのです。 今日のハイキングは、近鉄名古屋線・津新町駅が受付(9時半~10時半)。 桑名駅を9時1分発の五十鈴川行き急行に乗車。 9時49分に到着。 ¥750。 ゴールデンウィークとあってか、電車はかなり混雑。 座れません。 いつも江戸橋へ仕事に行くときに乗る電車ですが、比較にならないくらい混んでいました。 四日市から乗ってきた高齢の女性が話しかけてこられ、着くまでしゃべっていました。 お一人で「平成最後の伊勢参り」に行くということでした。 お元気です。 本日のコースマップ。 津新町駅を出て、三重刑務所、市杵島姫神社(このあたりは旧伊勢街道)、阿漕町の神明神社、山二造酢 (酢の試飲あり)、結城神社(梅の名所)、阿漕浦海岸を歩いて、高虎ドッグ、T2菓子工房、ラーメンいたろうでグルメを楽しみ、津新町駅へ戻るという7. なのですが、はじめに書いたように、家内の実家へ行くつもりでしたから、岩田橋で松菱百貨店に立ち寄ることにし、また、個人的にここをゴールに変更(笑)。 実際に歩いたのは、右のマップの通り。 松菱百貨店で7. ここから三重交通のバスに乗って、家内の実家へ行ってきました。 津新町駅をスタートしたのは、9時55分。 津新町駅北の踏切を渡って東へ。 500mあまりで右折し、昭和橋を渡ります。 スタートから1㎞弱で。 どういう風か、 立ち寄り先になっていました(笑)。 鈴鹿で働いていた若い頃から、ここに刑務所があるのは知っていました。 男性受刑者に限り、執行刑期が10年未満で犯罪傾向が進んでいない人たちを収容しているそうです。 見ていたら、古いレンガ組みの門が残っていました。 大正5(1916)年に建築された監獄正門です。 「安濃津監獄」の文字が右から左に書かれています。 現在は塀の外にあり、門としての機能は果たしておらず、歴史的資料として保存されています。 近くまで寄って見ていましたので、監視カメラでチェックされていたかも(笑)。 三重刑務所の先で左折し、国道23号線を越えます。 この先しばらくは、旧・伊勢街道を通っていきます。 スタートから2. 3㎞ ほどのところに真教寺という、天台宗のお寺があります。 地元では、「閻魔(えんま)堂」として知られています。 津の守護として、慶長19(1607)年、津藩主・藤堂高次公により町の入り口に建立されました。 閻魔王座像や円空作十一面観音立像などがあります。 十一面観音立像は、円空の作としては屈指の大きさだそうです。 真教寺は今も残る古い町並みの北端にあり、ここから南、伊勢街道沿いには往時の景観を今に伝える建物群があります。 真教寺のすぐ東にあるのが、。 伊勢参宮街道沿いになります。 津市のガイドブックを見て一度来て見たかったところです。 大昔には庚申塚でした。 市杵島姫は、南朝の重鎮であった北畠氏一族の守護神として北畠氏滅亡まで受け継がれました。 そのご神体を、天正4(1576)年の岩田川の戦いで敗れたとき、北畠氏の家臣が岩田の清長院へ預けたものがこの土地に移ったということです。その後、この地の産土神様にっています。 万物の生命をつかさどる水の神、音楽芸能、子孫繁栄の神様として崇敬され、付近の人々は、「弁財(べざい)さん」と親しみをもって呼んでいましたから、このあたりには弁財町の名がついています。 主祭神は、。 相殿神は、建速須佐之男命、宇迦之御魂命、大物主神、猿田毘古神、大山津見命、天照皇大御神、徳川家康、事比良神。 この神社には、青銅製の「湯立釜」があります(市指定文化財)。 釜屋町(現・北丸之内)の辻氏と並び称された中山村(現・津市栗真中山町)の鋳物師・阿保氏の作(元文5(1740年鋳造)。 境内には樹齢が400年とも500年ともいわれる、大きなイチョウの御神木があります。 周囲は約4m。 昭和20(1945)年の津空襲の時、湯気のようにもうもうとしたものが出て御神殿をつつみこみ焼失を防ぎ、風の向きもかえ火の手を止めたといわれています。 市杵島姫神社を出てすぐのところには教圓寺(真宗高田派)があり、それを過ぎて130mほどで阿漕町のがあります。 ここは一風変わった神社で街道脇に鳥居があるのですが、そのすぐ奥が拝殿となっています。 鳥居も拝殿も小振り。 江戸時代の絵図には「一万度祓納社」として描かれているそうです。 説明板によると、悪病が流行して町中がとても苦しんだ時に、人々が相談して阿漕町の中心部に神社を祭り祈祷したところ、病が治まったことから、町の守護として信仰を集めるようになり、毎年4月8日に大祭が催されるようになったといいます。 氏子の方がいて説明をしてくださいました。 珍しいことに、御祭神(大日孁貴命(オオヒルメノムチノミコト;天照大神の異称)は屋根に作られた天窓の上に祭られています。 写真撮影の許可をいただきましたので、拝殿前でかがみ込んで見上げて撮ってきました。 このため、地元では「まんどさん」と呼ばれています。 あたりで「様」というのは見たことがありますが、このように屋根の上に祀られ、それを天窓を通してお参りするというのは初めてでした。 神明神社からすぐ、街道の西側にあるのが、次の立ち寄り先である。 古い建物で、外には大きな看板などもありませ んので、危うく通り過ぎるところでした。 明治20(1887)年創業。 今日は、酢の試飲ができるということで、ショウガとゆずが入ったGin-Vine ジンビネ)というものをいただきました。 家内からは、冗談半分で「一升瓶に入った醸造酢を買ってきて」と所望されたのですが、残念ながら一升瓶に入ったものは売っておらず(笑)。 義母への土産にを買ってきました。 昔ながらの酢です。 山二造酢さんからさらに伊勢街道を南下。 昔風の連子格子の建物が残っていますし、卯建が上がっている建物もたくさんあります。 スタートから3㎞地点で左折し、東に向かいます。 次は、に行きます。 ここは梅の名所で、前々から是非とも訪ねたかったところ。 本来であれば、梅の季節がよいのはいうまでもありませんが、今年はその時期にハイキングもウォーキングもなかったのです。 御祭神は、。 他に、結城親光以下殉難戦没将士が祀られています。 結城宗広(?~延元3(1338)年)は、南北朝時 代の武将。 元弘の乱では、初め鎌倉幕府軍に加わったのですが、のちに後醍醐天皇方に転じ、新田義貞とともに鎌倉を攻め、幕府を滅ぼすなど、「建武新政」の樹立に貢献しました。 延元3(1338) 年、北畠親房らとともに陸奥経営に派遣されることになり、伊勢大湊から出航したのですが、暴風雨のため宗広は安濃津 (三重県津市の港の古称)に漂着。 まもなく病死しました。 ここは、古くから結城の森と伝えられ、結城塚とか結城明神とよばれてあがめられて来ました。 結城宗広公の立派な墓碑があり、300本の華麗なしだれ梅でも有名です。 結城神社に着いたのが11時15分、30分も境内を見て回っていました。 結城神社を出て東へ300mあまり行くと、阿漕浦の海岸に出ます。 今日は、風が強くちょっと寒いくらいでしたが、見晴らし は抜群。 北にがありますので、海にはヨットもたくさん出ていました。 ここからは、1㎞あまり、海岸の砂浜を歩きます。 ヨットハーバーの手前でちょうど昼になりました。 高虎ドッグが目の前ですが、ここは超人気店で、休日など駐車場は一杯で、店に入る階段まで人が並んで待っています。 たぶん入れないだろうと思って、いつも通り、コンビニ弁当を調達していましたので、砂浜の階段に座って、お昼にし、12時20分に再出発。 案の定、満員御礼。 となりにあるT2菓子工房は、パス。 はじめに書きましたが、今日は、松菱百貨店の前(岩田 橋バス停)からバスに乗って、家内の実家へ行くつもり。 時刻はチェックしていませんでしたが、久居駅が毎時15分頃ですから、逆算すると12時50分前後の発車のはず(昼間の時間帯は、1時間に1本)。 岩田川沿いを急ぎました。 右は、岩田橋。 渡った先に松菱百貨店があります。 左手に少し見えている大きなビルは、中部電力の津支店。 ここで7㎞。 12時40分。 前に12時45分に到着。 今日は、ここが個人的ゴール(笑)。 バスの時刻を見たら、12時55分発でした。 松菱で土産(と平治最中)を買って、バスに乗車。 家内の実家へ(¥730)。 家内の実家からは16時29分のバスで久居駅へ(17時2分着、¥530)。 17時7分の名古屋行き急行に乗り換え、桑名には17時58分着(¥820)。 平治煎餅は、に因む、津の銘菓。 あみま倶楽部のスタンプは16個目をゲット。 ALKOOのデータは右の写真の通り。 ハイキングで歩いたのが7. 1 ㎞、桑名駅までの往復が1. 8㎞ですから、合計8. 9㎞のはず(キョリ測のデータ)。 8㎞は歩いていません(バスがゆっくり走ったときなどをカウントしていると思います)。 本編は、4月11日の近鉄ハイキングから滞っていますので、少し先になりそうです(微笑)。 気温も昨日より9度ほど低い16度にしか上がりませんし、何といっても北西の冷たい風が吹きまくり。 久しぶりにウィンドウブレーカを出してきて散歩です。 8時20分から11時過ぎまで、住吉神社、九華公園、貝塚公園、吉津屋通り、京町、田町と6. 寒かった(苦笑)。 貝塚公園でキビタキに遭遇しました。 私のいつもの散歩コースでは、通りがかるだけのようで、滅多にお目にかかりません。 オス、メスともに、九華公園や貝塚公園でそれぞれ2~3回見たくらい。 今日も、貝塚公園に着いたときには、鳥の鳴き声もほとんどしなかったのですが、公園内を回っているとき、東屋近くで「何か飛んだ!」と思って探したところ、東屋の東に出て来ました。 ちょっと慌てたせいもあって、あまりきれいに撮れなかったのは残念。 しばらくいてくれないかと思うのですが、これまでの目撃経験では、その日限りですから、期待はできないかも。 さて、ゴールデンウィークに入り、木々の葉っぱも青々としてきて、目に鮮やかです。 諸戸氏庭園前のマイ・ソメイヨシノも、 ご覧のように青々としています。 右は、柿安コミュニティパークの様子。 公園の東側、揖斐川の堤防から西を向いて撮った写真。 奥の方には藤棚も小さく写っています。 ここで灯街道・桑名宿のメインイベントが行われますし、平日にはグラウンドゴルフもプレイされます。 住吉入江から揖斐川まで、今日もカワウしかいませんでした。 九華公園、強風のせいか、散歩する人は少なく、野球場で行われている中学生の野球の試合の歓声だけがよく聞こえていま す。 鎮国守国神社では、氏子の方が5月2~3日に行われる金魚まつりの準備をなさっておられました。 つつじはボチボチです。 左は、朝日丸跡にて、青紅葉をバックに見上げてみました。 右は、神戸櫓跡からの景色。 1本だけ、真っ赤な花が咲くつつじがあります。 九華公園の中は、野鳥はほとんど見当たりません。 キンクロハジロは、19羽が滞在。 強風であの「寝癖」が目立っています。 去年の10月半ば頃から来ていましたが、今年はあと何日いてくれるでしょうか? 知人と話していたら、足下にスズメが寄って来ました。 別に「餌をくれ」といっているわけではなく、左の写 真のように虫を咥えていたりします。 今日、九華公園でもっともたくさんいたのは、スズメ。 3月頃から繁殖するといいますから、ヒナへの餌かも知れません。 去年は、5月10日に九華公園でヒナを確認しています(2018年5月10日:)。 貝塚公園。 つつじがご覧のような姿になっています。 たいていは、九華公園にあるように丸く仕立てられていると思うのですが、春先に下の方をバッサリと剪定してしまったため、このようになっています。 これが自然な姿なのかも知れませんが、違和感があります。 それに、つつじの植え込みによくウグイスがいましたが、これでは隠れられないので、ウグイスも来ません。 貝塚公園に着いたときには、鳥はムクドリくらいしか見当たらなかったのですが、歩いているうちにツグミが1羽登場。 その 後、はじめに書いたようにキビタキまで見られました。 その他、シメも1羽いました。 貝塚公園でシメを見るのは珍しいことです。 シロハラは、九華公園でも、貝塚公園でも見なくなりましたので、もう帰ってしまったと思われます。 吉津屋通りに回ったのは、寺町堀の南にある吉津屋堀沿いの藤棚に白い藤があったので、それを確認しようという次第。 ここ には3つの藤棚があるのですが、行ってみたら、ご覧のような有様。 九華公園の本丸跡の藤棚も似たような状況ですが葉っぱは繁っているものの、花が少ない、房が短いということでした。 ちょっとガッカリ。 白い藤は、左の写真の藤棚の奥にあるのですが、これも右の写真のような様子。 桑名市も、公園の樹木は植えっぱなしで、剪定はするものの、施肥など手入れをしないようですから、こんなことなのでしょう。 もうちょっと手入れをして欲しいところ。 そういう中では、昨日も載せましたが、内堀南公園の藤は、それなりに見られます。 ひょっとしたら地元の方が何かしてくださっているのかも知れません。 この公園には桜の老木もありますが、地元自治会の方々が、花見をしておられたり、金魚まつりの準備や、待機場所に使っておられるのを見ますから。 ツバメの巣も、昨日に引き続き巡回してきました。 京町の呉服屋さんの巣には、親鳥が1羽座っていました(左の写真)。 ここ は営巣してくれると期待しています。 また、田町の商店にある2つの巣のうち、南側には親ツバメが2羽いました(右の写真)。 こちらも毎年営巣していますから、今年も確実と思っています。 その他、巣を修復していた、博物館の玄関先と、田町のお宅の巣はツバメはいませんでしたが、修復したからには卵を産むと期待しています。 10連休が始まりましたが、私には実質、ほとんど関係ありません(苦笑)。 世の中に逆らっているわけではありませんが、リタイアしてブラブラ(フラフラ?)していますから(笑)。 連休の間、天気もいろいろのようですし、5月3日には相談会を予定しています。 現在、その準備を進めていますが、近鉄ハイキングなどにも出かけたいと思い、週間予報とにらめっこ。 家内の実家も訪ねたいと思っています。 4月30日、「平成最後の日」には実家方面でハイキングが予定されているものの()、この日は雨模様という予報。 代わりに明日、津であるハイキング()に行ってこようかと思ったりしています。 コースにある「」は魅力なのですが、ここは普段から人気の店。 大賑わい必至。 はまぁよしとして、も行ってみたいところなのですが、梅の名所ですからちょっと時期はずれ。 う~む、思案のしどころ(笑)。 4月11日の近鉄ハイキング「」のその2です。 前回、大聖寺まででしたが、3㎞も来ていません(苦笑)。 ボチボチ、ゆるりと行くことにします。 地名でいうと日永の町を歩いています。 前回見てきた東漸寺あたりから、今日書く両聖寺付近の東海道は、初めて歩くところです。 スタートからほぼ3㎞のところに、日永山興正寺という真宗高田派のお寺があります。 貞観6(864)年の創建。 もとは登城山(現在地から1㎞ほど西、南部丘陵公園のところ)に あり、そのときは天台宗でしたが、文暦元(1234)年、が当寺に立寄られたときに改宗しました。 その後200年程して、真宗高田派第十世・が津の一身田に本山を定められた時に、高田派となっています。 天文13(1544)年、真宗高田派第十二世・は、ここ興正寺で「日永千部」というこの寺の復興勧進法要を勤め、興正寺が高田派の有力な末寺になったといいます。 天正2(1574)年、現在地に移ってきています。 秀吉、家康の庇護が篤く、また、天正3(1575)年にから寺領の寄進と諸役免除を受けているといいます。 滝川一益が興正寺に対して出した「日永興正寺四至傍至の事」という寺領を与える文書、豊臣秀吉の寺内「禁制状」などの文書が残っているそうです。 寺の蕎麦を流れる天白川が、寺を囲むように曲がっているのも、滝川一益が堀の役目をするようにしたという話もあり、この堤を昔の人は「滝川堤」と呼んだそうです。 興正寺の先で天白川を越えると、すぐに林光山弘願院両聖寺があります。 浄土宗のお寺。 最初は、天台宗林光山西教院と称し ていましたが、住職の専阿(せんな)上人が、浄土宗第三祖禅師と比叡山で一緒に修行した縁で、宝治2(1248)年、記主良忠禅師がここで浄土教を宣布されたのを契機に、浄土宗に改宗しています。 それ故、記主良忠禅師を開基とし、専阿上人を第二代としています。 第三代道阿玄忍上人のとき、前期の両聖人に因んで寺号を両聖寺としています。 明治40(1907)年、両聖寺の鎮守であった八幡社は分離され、大宮神明社に合祀されています。 両聖寺には、毎年8月に天白川の堤を固めるために行われた「」が今に伝わっています。 踊りながら太鼓を打ち鳴らす踊りで、2020年には発祥400年を迎えます。 この起源については、滝川一益の母の隠居所を実蓮寺境内に建築する地固め工事に歌った歌謡と動作を取り入れた踊りであるという伝承や、滝川一益が田畑を流失する農民の困窮を見て、天白川の堤防を築くための地固め、地つきに歌ったとする伝承があります。 なお、元和6(1620)年の「清水九朗左衛門手記」に「日永踊之事ツンツクノ事ハ此ノ町地タカメ浪切踊トテ帯ヲ手ニモチ扇ニ而踊浪入也」とあり、近世の初頭には現在のような「つんつくおどり」があったと推測されています。 両聖寺から200mあまりで、に到着。 ここは、一昨年12月17日にJRさわやかウォーキングで訪れています(2017年 12月19日:)。 昔は南神明社と呼ばれていました。 明治40 1907 年以降日永神社というようになりました。 建仁年間 1201-1204 頃に創建されたといわれています。 天正年間(1573-1592年)に織田信長の伊勢侵攻の際、焼失しています。 その後、再建され、江戸時代には神戸藩主本多氏の崇敬厚く、神社はさかえました。 明治40(1907)年11月、岡山白髭社、日吉神社、追分神明社の3社を、明治41(1908)年1月に池鯉鮒、山神、天満、事比羅、土大神の5社を、明治44(1911)年9月に稲荷社を合祀しました。 ご祭神は、、(あめのたぢからおのかみ)、(たくはたちぢひめのみこと;天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ)、、、(はにやすひめのみこと;火之夜芸速男神を産んで死ぬ間際の伊邪那美命の大便から波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の二神が化生した。 ハニは土のこと)、、(オオモノヌシノカミ;奈良県桜井市の大神(おおみわ)神社の祭神)、(オオヤマツミノカミ;山をつかさどる神)、道反之大神(チガエシノオオカミ;黄泉の国へとイザナミを迎えに行ったイザナギがそこで、腐り蛆にまみれ穢れたイザナミを見て、逃げ出し、黄泉の国と現世の間に大きな岩(千引き岩)を置いて塞ぎました。 その岩のことをいいます)、(ウカノミタマノカミ;五穀、食物をつかさどる神)です。 境内には、追分旧道標があります。 明暦2(1656)年に(四日市市川原町)を開いた恵心という僧によって建てられた、東海道現存最古の道標(全国では5番目、県内では2番目に古いといいます)です。 嘉永2(1849)年、今の大きな道標が建てられるまで、日永の追分に建っていたものがここに移設されました(明治40(907)年)。 正面に「大神宮」と刻まれ、左面に「山田」、右面に「京」と刻まれています。 この「石造旧日永の追分道標」は、今年3月26日、四日市市の有形文化財に指定されました。 ここにも、皇大神宮遙拝所があります。 「皇大神宮」は、もちろん、伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである「内宮」のことです。 「遙拝」は、遠く離れた所から神仏などをはるかにおがむことですから、この方角に伊勢の内宮がある訳です。 この皇大神宮遙拝所の石碑は新しいのですが、昭和57(1982 年に建てられています。 日永神社のすぐ南隣に、長命山薬師堂があったのですが、この日はすっかり失念して、通り過ぎました(2017年12月19日:)。 市指定文化財である薬師如来座像が納められています。 鎌倉時代中期の作とされ、元は伊勢安国寺の旧像。 天正年間 1573~1592 、安国寺炎上の時、日永村のに運び出され、その境内の小堂で内仏として信仰されていたものが、文化13 1816 年、ここに移されたといいます 説明板による)。 実蓮寺は、日永小学校の東(日永カヨーの裏手)に現在もあります。 滝川一益が菩提寺とし、一益の母親の墓もあるそうですから、見たかったのですが、今回もパスしました。 日永神社から長命山薬師堂を挟んですぐ南が、日永小学校。 その敷地内に、日永出身の実業家・「稲垣末吉翁頌徳碑」と「表忠碑」があります。 稲垣末吉は、日永の追分まで自費で配管を敷設して、水を旅人達に供した方です。 稲垣は、明治時代、東京で製錨工場を創設、後に製鋼工場となり、巨万の富を築きました。 地元に戻り、地域社会のために、社会福祉、自社建立、学校建設にも尽力し、さまざまな寄付をするなど貢献された方です。 「表忠碑」は、戦没者の遺徳をたたえ、永遠に顕彰するため、明治42(1909)年8月に、日永村在郷軍人の方々が発起人となって建立されています。 揮毫者は、元帥公爵の。 スタートから4㎞、10時40分頃に雲祥山西唱寺(うんしょうざんさいしょうじ)。 浄土真宗高田派のお寺。 永禄2(1559) 年、僧・玄聖(げんしょう)の開創で、もとは安立院という浄土宗のお寺でした。 江戸時代初期、誓宅が住持の時に、專修寺第14世に帰依して浄土真宗となり、本尊を賜っています。 寛文元 1661 年には西唱寺と改められました。 正徳2(1712)年、中川十兵衛尉が、聖徳太子の木造を奉じて当山に立ち寄り、伝法法師に願ってここに留まり、享保2(1717)年、ここで没しています。 西昌寺には、寺宝がたくさんあったそうですが、昭和20(1945)年6月18日の四日市空襲によって本堂や庫裏、太子堂、書院などが全焼してしまい、寺宝、古文書等は一切灰燼に帰してしまいました。 戦後、昭和21(1946)年から35(1960)年にかけて順次、庫裏、梵鐘、本堂、書院が再建されて今日に至っています。 境内に、安政6(1859)年、近隣の有志で登城山(白鬚神社の北)から竹管で水道を引いた「水道記念碑」があるのですが、に続いてまたもや、見てくるのを失念。 さて、この西昌寺あたりから、実測ルートマップは2枚目になります。 四日市市もかなり南のエリアに入っています。 四日市あすなろう鉄道と国道1号線の間を南下しています。 東には、日永カヨーという大きなショッピングセンターや、県立四日市工業高校があります。 日永の追分も近くなってきました。 西昌寺から南へ100m足らずのところに「」の石碑が建っています。 県指定史跡(昭和13年4月指定)。 四日市市内には4ヶ所の一里塚がありました(富田、三ツ谷(海蔵川の北詰)、日永、釆女(杖衝坂を登りつめたあたり))。 日永の一里塚は、江戸からちょうど百里だそうです。 塚はもとは5m四方で高さ2. 5mの塚が灯街道の両側に築かれていたそうです。 「(とうかいどうぶんげんのべえず)」(文化3(1806)年)によれば、西側の塚に松の木3本、エノキ1本、東側の塚にエノキ1本が描かれているといいます。 西側の塚にはエノキが残っていたのですが、明治2(1869)年には伐採され、塚自体もすでにありません。 家屋と倉庫の境界のわずかな空き地に細い標柱が立っているのみで、ウッカリしていると見逃します。 5㎞地点を過ぎたあたりに「東海道名残の一本松」があります。 旧・東海道の東側に立派な松の木が一本、立っています。 かつて、ここ日永の集落と、泊村の集落との間は、家は一軒もなく、松並木の縄手道だったそうです。 今では、この一本松だけが今に残り、往時を偲ぶよすがになっています。 そのため「東海道名残の一本松」と呼ばれているのです。 たくさんあった松は、戦時中、松根油を採ったためほとんどなくなったといいます。 縄手の道幅は、土手も入れて約5間(9m)でした。 現在の道幅もほぼ同じです。 写真はいったん通り過ぎて、南から撮ったもの。 時刻は11時、スタートして1時間半。 9㎞を歩いてきて、のども渇いたなと思ったところで、今日の立ち寄りスポットである「」さん。 あすなろう鉄道・泊駅近く。 ここで、熱いお茶の接待をしていただけました。 創業60年だそうです。 80代を迎えた初代店主自らお茶をくださったのですが、さすがお茶屋さん、香りも味も家庭では出せないものでした。 しばし歓談の相手もしてくださり、よい休憩となりました。 泊の町から追分へ。 お茶のやまなかさんを出て300mほどで、があります。 ここはまちかど博物館。 以前にも来ており、たぶん3回目。 ここには、郷土の歴史・民俗・文化を後世に継承するとともに、それらを学ぶことができるようにと、日永郷土史研究会を中心とした準備委員会が、土蔵付きの商家の建物を借りして開いたところ。 日永の名産であった「日永足袋」「日永うちわ」をはじめ、地元に残る歴史・民俗・文化・街道(東海道・伊勢街道)などに関わるさまざまな資料が展示されています。 やまなかでお茶はいただきましたが、同行のMさんと今度は「小腹が空いた」ということになって(微笑)、資料館で出張販売されていたさんの「」を買って食べることに。 采女は、国道一号線で内部川を越えたあたりの地名。 今年3月2日の近鉄ハイキングで訪れた「杖衡坂」のあるところ()。 日本武尊が伊吹山の賊を平らげ大和へ帰還の道すがら、負傷した足 を引きずり、剣を杖の代わりにして登られた故事に因んで名づけられ、また、松尾芭蕉が落馬して「歩行ならば杖衡坂を落馬かな」と詠んだあの「杖衝坂」からその名を取った銘菓。 最中ですが、中身はあんことお餅。 1個¥272。 小腹を満たす以上の効果が得られました(笑)。 いよいよ日永の追分が目前に迫りましたが、長くなりましたので、その2はここまで。 その3は日永の追分から、伊勢街道に入ります。 4月11日に行ってきた近鉄ハイキング「」の記事、だけ書いて「放置状態」でした(苦笑)。 サボっていたつもりはないものの、この間、江戸橋方面での非常勤が始まったり、義理ごとができたり、相談会の資料読みを行ったりしているうちに時間が過ぎました。 も同様で、在庫山積みですが、自らまいた種ですから、自分で刈り取らねばなりません。 ボチボチと記事を書いていくことにします。 このハイキングはお伊勢参りの3日目で、近鉄四日市駅をスタートし、東海道を歩いて、日永の追分で伊勢街道に入り近鉄鈴鹿市駅まで。 旅2日目に(3月24日)、近鉄富田駅から東海道を歩いて、近鉄四日市駅まで来た続き(2019年3月25日:)。 このときは、7. 近鉄四日市駅での受付が、9時半からということで、桑名駅を9時1分の五十鈴川行き急行に乗車。 四日市には9時9時13分に到着。 ¥300 本日のコースマップは、B4サイズ両面。 近鉄四日市駅(南改札口)を出て、東海道に入り、日永神社、日永一里塚跡、東海道 名残りの一本松を経て、お茶のやまなかで呈茶サービス。 その後、東海道日永郷土資料館に立ち寄り、伊勢街道との分岐である日永の追分へ。 伊勢街道を歩いて、河原田神社、忘帰處から鈴鹿川を渡って、神戸の見附跡と札の辻を見て、近鉄鈴鹿線・鈴鹿市駅がゴール。 コースマップ上は、12. 川を何本も越え、ちょっとした小旅行気分。 4月3日のハイキングと同様、Mさんと2人旅。 私があちこち立ち寄り、Mさんを連れ回して、大変迷惑をおかけしたのではないかと思います(微笑)。 しかし、旅や散歩の醍醐味は、立ち寄り、道草にあると思っています。 決められたコースからちょっとはズレたりして、目新しいもの、珍しいもの、面白いものを見つけるのは止められないのです。 こちらが実際に歩いた実測ルートマップ。 こうして改めて見ると、ずいぶん歩いたと思います。 ハイキングで歩いたのは、13㎞。 立ち寄り先でウロウロしていますので、実際にはもう少し歩いているはず。 もっとたくさんのところへ立ち寄って来たのですが、このマップには書き切れませんので、かなり省略してあります。 桑名駅までの往復で2. 1㎞(帰りに所用を済ませてきました)でしたので、合計15. さすがに15㎞を歩くと、よく歩いたと思いますし、いささか疲労感があります。 いつものように何回かに分けて旅の記録を書くことにします。 もう少し拡大した実測ルートマップ(その1)。 近鉄四日市駅を出て、国道1号線に向いていきます。 300mあまりのところを 右折し、旧東海道に入ります。 四日市でも繁華街のあたり。 曲がるところには、このような道標があります。 写真で奥に見える信号は、国道1号線諏訪栄町の交差点。 この右折した交差点の北は、。 旧東海道が、商店街になっているところ。 旧東海道に入って200mも行かないところ、を渡ってすぐのあたりにあるのが、。 真宗高田派のお寺ですが、作家・(明治37(1904)~平成17(2005)年)の生家です。 昭和7(1932)年「鮎」でみとめられ、風俗小説を多作しましたが、のち仏教への傾斜から「親鸞」、「蓮如」を著しました。 日本芸術院会員、文化勲章を受章しています。 崇顕寺は、(藤原)末胤、田原忠秀が文明元(1469)年、を築き、孫元網の時元正3(1575)年に織田勢の滝川一益に滅ぼされました。 この田原家の一族丹羽弥八郎時定が菩提のため、創建したといわれています。 もとは天台宗の寺でしたが、文亀2(1502)年にに帰依し高田派の寺となっています。 天和元(1618)年の火災と、昭和20年四日市大空襲で消失していて、由緒の詳細は不明。 この真慧上人(しんねしょうにん)は、三重県のお寺を調べるとよく出て来ます。 浄土真宗の僧で、高田本山専修寺の第10代。 常陸の浄土宗迎雲寺等で顕密を学び、高田に帰った後、伊勢・三河・越前・加賀に布教。 高田専修寺を継ぎ、高田派教団の勢力を拡大した方です。 相当徳を積まれたお坊様のように思えます。 崇顕寺から300mほど、東海道の西側に仏法山東漸寺という、こちらも真宗高田派のお寺があります。 ネットで調べてもあま り情報は出て来ませんが、建仁元(1201)年創建の古刹です。 童話作家・東光敬(あずまこうけい)の生家。 東は、丹羽文雄の弟である房雄(文雄に代わって、崇顕寺を継いでいます)と同級生。 東については、(四日市文化協会の広報誌)に言及されています。 東の童話は「仏典童話」と称されるそうですが、その他に、郷土四日市の風光に材を採った童話も書いています。 昭和10(1935)年に発表した人権意識の深い「白い鳩」であり、12(19374)年発表の初期四日市工毒(公害のこと)を告発した「ひばり」がそれです。 このあたりの東海道の様子。 東漸寺から先、近鉄名古屋線の高架を潜ります。 その手前に慈光寺(真宗興正派)というお寺が ありましたが、東に入らねばなりませんので、パス。 高架を潜ると、の線路が近くを走っています。 赤堀駅の手前にという、四日市でもっとも古い建物があるはずなのですが、見当たりません。 鈴木薬局は、200年以上も続いた旧家で、代々、勘三郎の名を受け継ぎ現在で11代目まで続きました。 4代目・勘三郎高春が寛延3(1750)年、長崎に赴き漢方を伝授されたと云われています。 建物は6代目・勘三郎高光が 嘉永5(1852)年に建てたもので、これを観たいと思っていたのです。 調べてみたら、に「解体されて更地になってました」とありました(2017年6月15日づけの記事)。 歩きながら気をつけて見ていたものの、ありませんでした(鈴木という表札が出た、大きなお宅がありました。 これが鈴木薬局の跡地だったのかも知れません)。 残念です。 右の鈴木薬局の写真は、四日市・からお借りしました。 その後、落合川、鹿化川と越えて、スタートから2. 3㎞のところに大宮神明社があります。 詳しい由緒は不詳ですが、社伝によ れば第11代・垂仁天皇の御代、皇大神宮が伊勢にお遷りになる時に岡山の丘陵地(現在、があるところ)に一時お留りになり、そこに神宮の神領地として皇大神宮を勧請したのが始まりとされています。 永禄5(1562)年、それまで舟付け明神といって崇め祀っていたこの岡山の神明社が炎上したので、その頃出来上がりつつあった新道路(東海道)の傍らに遷座されたのが今の大宮神明社です。 江戸時代には主・本多家の崇敬を受けていました。 「永宮さん」とも呼ばれるそうです。 主祭神は、。 相殿神は、(アマノタヂカラオノミコト;天照大神の隠れた天の岩屋の戸を手で開けた大 力の神)、(たくはたちぢひめのみこと;高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子で、天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。 織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる)、(イチキシマヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約の時に生まれた三女神の一。 福岡県の宗像大社の辺津宮の祭神)、(タキリビメまたはタギリヒメとも;日本神話に登場する女神で、宗像三女神の一柱。 宗像大社では「田心姫神」として、沖ノ島にある沖津宮に祀られている)、(タギツヒメノミコト;天照大神と素戔嗚尊との誓約のときに、素戔嗚尊の剣から生まれた三女神の一。 福岡県の宗像大社の祭神で、中津宮に鎮座するとされる)、(ホンダワケノミコト、応神天皇)、(オオヤマツノミコト;山をつかさどる神)、(ミズハノメノミコト;代表的な水の神(水神))となっています。 明治40(1907)年に天白社、八幡社の二社を合祀し、明治41(1908)年には5社を合祀しています。 例祭は10月の体育の日。 獅子舞があり、八幡獅子が家々を回るそうです。 また、6月30日夜には、那護志の大祓があり、いわゆる「」が盛大に行われます。 境内には、摂社として二柱大神があります。 ここは江戸時代末より病気平癒の神(センキの神)として信仰されています。 (すくなびこなのみこと;農業・酒造・医薬・温泉の神)と、(おおなむちのみこと;天照大神に対して国津神 (土着の神々)の頭領たる位置をあらわす)が祀られていますから、二柱神社かと思います。 境内には、靖国社や、「皇大神宮遙拝所」がありました。 皇大神宮は、もちろん伊勢神宮。 前にも書きましたが、四日市市内 の神社では時々見ます。 これらの他にも、稲荷社と思われる社や、不明の小さな社もありましたが、神社の説明板や、神社検索三重のサイトにも言及はなく、詳細は不明。 大宮神明社から300mほど、大聖院へ入る角に「」があります。 大正12(1923)年9月にあった集中豪雨による水害までは、この碑の前(南)の道が(四日市市の南西端、鈴鹿山脈の麓、伊勢茶の栽培が盛んな地区)への道でした。 碑は元は東海道との角にありましたが、現在は、民家の庭にあります。 碑表には、「水澤は藍より出て紅葉哉 大坂 羽津み」とあります。 「羽津み」は、江戸中期(1780~1800年頃)の大坂の古銭研究家・河村羽積(はづみ)のこと。 碑陰には、「猿丸太夫名歌古跡水澤へ 是より三里」と刻まれています。 水沢には、宮妻峡や、という紅葉の名所があります。 百人一首にある「奥山に 紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき」という猿丸太夫の読んだといわれる歌の情景を、紅葉の名所・水沢楓谷(もみじだに)に名残を求めたものであろうかと、「日永ものがたり」にあるといいます。 水沢の楓谷は昔から紅葉の名所で、菰野藩主の土方公は必ずこの紅葉を愛でたというくらいです。 水沢道標からすぐ西に(むどうさん だいしょういん)。 真言宗醍醐派のお寺。 ご本尊は不 動明王。 寺伝によれば、天平10(738)年、行基の開山に係る古刹とされ、当初は西方の愛宕山に位置し、塔頭17院を有する大寺であったと言われます。 平安時代には醍醐寺座主定海僧正御住坊でした。 永禄8(1565)年松井親蔵法印が千草氏の庇護のもの、一族の守り本尊であった不動明王を奉じ、氏寺として寺院を再興しました。 元禄3(1690)年、中興第4世大僧都・海養法印は寺院を現在地に移し、寺名を大聖院と改めました。 神戸藩主御祈願寺として信仰を集めましたが、明治初めの廃仏毀釈の風潮が厳しく、寺領地を失い、境内も現在の範囲を残すのみとなったといいます。 本尊の不動明王(秘仏)は、鎮守府将軍源頼義公、義家公父子の念持仏で、平安後期のもの。 大正4(1915)年、重要文化財に指定されています。 他に、県指定有形文化財に指定された絹本著色釈迦三尊十六善神像もあります。 境内には、庚申堂もあります。 あちこち立ち寄って見ていますが、まだスタートして3㎞も進んでいません。 先行き、どうなるか、我ながらいささか心配ですが、長くなりましたので、その1はここまで。 スッキリしない天気でした。 朝7時半頃にはざっと強い雨。 午前中は曇りがち。 昼頃から晴れてきたものの、午後遅くからは北風。 冒頭の写真は、散歩から帰ったときの北の空。 今日は、いつも通り、8時20分から住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀南公園、入江葭町、京町、寺町、田町と6. 九華公園のつつじ、ボチボチ開花が進んでいます。 まさに「ボチボチ」という感じです。 場所や、木によって咲き具合はかなり異 なります。 いつものように、よく咲いているところを撮っていますので、その前提でご覧ください。 5月1日から15日まで「」が開かれますが、特別なイベントは企画されていません。 ただ、5月2、3日は、鎮国守国神社の「」が開かれます。 氏子各町からいろいろな形の金魚の御神輿が出されますが、金魚の露店は最近はかなり少なくなっていて、残念。 九華公園を始め、散歩コースは今日もまた、鳥が少なく、張り合いがありません。 揖斐川には水鳥の姿はありません(カワウの み)。 三の丸公園、柿安コミュニティパークも、ムクドリとスズメ、ドバトだけ。 三の丸水門のヒバリは見当たらず。 九華公園では、ツグミが3羽。 朝日丸跡の東側で、かなり近いところに同時に出現。 しかし、向いている方向はバラバラでした。 このほか、コゲラ、シジュウカラ、カワラヒワくらい。 カモ、今日は、16羽。 散歩する人も少ないので、餌はもらえないと思います。 吉之丸堀の東側エリアで2つのグループに分かれてのんびり過ごしています。 貝塚公園でも鳥はおらず、内堀南公園で藤棚を見たら、ちょっと珍しい光景に気づきました。 2点あります。 一つは、藤の木の 幹の辺りにも花がたくさん咲いていたこと。 幹のところにこれだけ葉や、花が付いているのはほとんど見たことがありません。 もうひとつは、こちら。 藤棚から少し離れたところに、小さな藤の木が生えていて、葉っぱがでて、花が咲いていました。 去年まではまったく気づきませんでした。 このあとは、ツバメの巣の巡回。 博物館の玄関の巣にはいませんでしたが、京町の呉服屋さんの巣には、親ツバメがいました(左 の写真)。 ここのお宅には3つの巣がありますが、そのうちの1つ。 しばらく前から時々、巣に就いていますが、不在というときもあります。 右は、田町の商店の軒先にある巣。 ここも2つあるうちの1つに親がいます。 こちらは、三崎通のあるお宅の玄関にある巣。 去年は使われていなかったと思うのですが、今日見たら、修復されていました。 8ヶ所見て回ってきましたが、今のところこれら3ヶ所で営巣するのは確実と思われます。 ところで、昨日も書きましたが、5月1日から3日まで、のイベントが行われます。 今朝、散歩に出たら、住吉 入江の辺りや、揖斐川右岸の堤防、七里の渡し跡、蟠龍櫓付近に「」が並べられ、準備が始まっていました。 この燈籠、玄関先に1個あっても良いかなという気がしますが、お値段は¥27,000。 暗くなって、灯りが入っていないと絵になりません。 しかし、こうも野鳥がいないと、散歩に出ても張り合いがありませんねぇ。 プチ遠征をして、サギ山とか、M池公園とかに行った方が良さそうに思えます。 非常勤は、来週は休みですが、相談会の準備をしなくてはなりませんし……。 夕方近くになって晴れてきましたが、午前中はどんよりしていました。 気温は25度を超え、湿度も高いので、ちょっと蒸し暑いくらいです。 朝9時にいつものS理容院さんへ行って、散髪。 その後、九華公園へ散歩という次第。 散髪を終えて、田町交差点を左折して、九華公園に向かおうとしたら、散歩友達で、鳥見の大先輩のIさんの奥さんに遭遇。 Iさん、体調を崩して入院中ということでしばしお話を伺ってきました。 奥様も毎日面会にいらっしゃるということですが、徒歩で往復2㎞半以上ですから、それも大変です。 九華公園には10時半到着。 時間がいつもより遅いので顔なじみの散歩友達はいませんし、鳥もこの時間ではいません。 カモたちは、キンクロハジロだけが 14羽。 朝7時半頃には20羽ほどいたと管理人さんから伺いましたが、その後、どこかに行ったカモたちがいるのでしょう。 スズメ、ドバト、ハシボソガラス、ムクドリ、キジバトくらいしかいなかったのですが、それでもよくよく見て回ると、ツグミが1羽と、シメの声が。 本丸跡でです。 ツグミはすぐに逃げられ写真は撮れなかったものの、シメは何とか証拠写真が撮れました(苦笑)。 今日は、超望遠コンデジしか持って行きませんでしたので、とっさの対応が難しかったのです。 つつじなどは、かなり咲いてきましたが、去年よりはやや遅い感じ。 今日は、公園の中だけを歩き、外周遊歩道も回らず、他へも行かず。 公園施設の掃除をしてくださるMさん、管理人Nさんと話をして、柿安コミュニティパークを経て帰ってきました。 三の丸水門のところで、散歩友達のYさんに遭遇。 今朝の「」に載っていた、伊勢・長島藩主・の話になりました。 江戸末期の伊勢・主にして、絵をよくした方。 で、4月20日から6月16日まで「」が開かれるという記事が載っていたのです。 私は、桑名市博物館でも雪斎の絵を何度も見ていますが、藩校文礼館を創建し、藩学の振興につとめていますし、花鳥画や詩文にも長けたお殿様だったようです。 という次第で、散髪のあと歩いたものの、またもやおしゃべりばかりで距離は伸びず(苦笑)。 オマケに住吉水門に戻って来たら、雨まで降ってくる始末。 我ながら、「しょうがねぇなぁ」と思っています。 本年度2回目の江戸橋方面でのお仕事。 今日もまた、天候には恵まれませんでした(苦笑)。 講師控え室で同席した他の先生とも、「どうして水曜は雨が多いんでしょう?」という話になりました。 桑名駅までの間も、江戸橋駅の往復も、さほど強くは降らなかったのは幸い(笑)。 今日の受講者数もほぼ50名。 前回と多少は入れ替わりがありましたが、皆、熱心に聞いてくれています。 ゴールデンウィークというか、10連休を挟みますので、次は5月8日。 私の学生時代もそうでしたが、連休を挟むとテンションが下がって出てこなくなる学生がいました。 昔は、「」などといったのですが、どうなりますか。 ちなみに、昨年は、連休前の4月25日には58名の出席者が、5月9日には49名に減り、その後少しは回復したものの、連休明けから出てこなくなってしまった学生も少しあり、気になるところ。 生活リズムや体調を崩さないよう、また、リフレッシュにも気を配ることが必要かと思います。 今年の学生たちの中には、4年制大学へ編入して心理学を勉強したいとか、公認心理師や臨床心理士の資格を取りたいと書いてくる学生がいつもより多い印象があります。 短大からの挑戦ですと、難しいことも多いと思いますが、初心忘るべからずで、また、情報収集を行い、工夫をして目標達成してくれるよう願っています。 10連休になりますが、世間では喜んでいる人は少ないというニュースもありました。 旅行に行こうにも費用が嵩むでしょうし、あちこち出かけると混雑しているということもあります。 休めないという方も多いようですし、体調を崩しても病院が休みということもあります。 何がよいのか難しい時代です。 私自身は、いつも通りにプラス相談会を1回予定していますので、明日からはその準備に注力しなければと思っています。 余談を追記。 朝、往きの電車で若い女性から席を譲っていただきました。 人生、これで2度目の体験です(苦笑)。 高齢と覚しき方でも遠慮なさったり、中には「オレはそんなジジイじゃない」と怒り出したりする方があるように聞いています。 しかし、私は、最近は、いただいたご厚意はありがたく承ることにしました。 その方がお互い気持ちも良く、また、若い方たちが、自分が行った行動が受け容れられることで、それが強化となって、また他でも同様の親切をしてくれることにつながるのではないかと期待するというのが、その勝手な屁理屈。 いただいた好意は、また他のところで別の方にお返ししようと思っています。 今日は、いつも通りの散歩。 住吉神社から九華公園、貝塚公園、内堀公園の あとは、京町、寺町、田町と5. 右のつつじは、名所のものではなく、拙宅マンションにて撮影。 かなり咲いてきました。 冬鳥たちはほとんど見なくなりました。 今日の散歩では、ツグミ、シメ、シロハラはまったくいません。 皆、もう帰っていった ものと思われます。 七里の渡し跡を歩いているとき、アオサギが1羽、上空を通過。 三の丸水門の上流側には、ヒバリが1羽。 柿安コミュニティパークや、三の丸公園には、ヒヨドリ、ムクドリ、ドバト、スズメしかいません。 柿安コミュニティパークにある藤棚では藤が咲いてきましたが、昨年までと同様、東側の半分しか咲きません。 藤の木は2本ですが、1本しかつぼみを付けていません。 クマバチさんが、蜜を集めに来ています。 ヘンに刺激しなければ、攻撃されることはないのは知っているものの、あの羽音を聞くと、ちょっとビビります(笑)。 九華公園は、静かでした。 「静か」というのは、二重の意味で、散歩する人もさほど多くはありませんし、野鳥 の声も聞こえてこないということ。 花見の時の賑わいがウソのようです。 野鳥も、カワラヒワ、ドバト、ムクドリ、ヒヨドリ、スズメがいるものの、数が少なくて、鳴き声もあまり聞かれないです。 つつじの咲き具合は、場所によってかなり違います。 写真は、よく咲いているところを撮りますので、誤解なきように願います。 公園全体としては、咲き始めという印象です。 キンクロハジロご一行は、13羽が滞在中。 いつもは、堀の東側エリアにいたのですが、今日は、九華橋の南に集まっていまし た。 昨日は19羽だったようですが、もうゴールデンウィークも目の前ですから、例年通りということでしょう。 あまりにも鳥が少ないので、スズメとムクドリに持っていたパンを与えて、遊んでもらいました(微笑)。 スズメの方が反応が早く、すばしこく寄って来ます。 チョウも、アゲハ、モンシロチョウなどがよく飛ぶようになって来ています。 ツバメの巣も巡回してきました が、今日はどの巣にも親ツバメはいませんでした。 どうなっているのでしょう? もうそろそろ卵を産んでもよい頃かと思うのですが……。 住吉入江にいる、翼を痛めたヒドリガモのオス、今日は、南の端(寺町商店街に近いところ)にいました。 水面を見つめて、何やら物思いにふけっているように見えます。 さて明日は、江戸橋方面、今年度2回目ですが、天気がアヤシい(苦笑)。 去年からのジンクスを引きずっているような気がします。 暖かいを通り越して、暑くなりました(苦笑)。 今日の最高気温は、28. 毎年ゴールデンウィーク頃、急に暑 くなったりするようですが、体調が追いつきませんねぇ。 今日の散歩は、住吉神社から、いつもとは逆に、揖斐川の上流方面へ。 ブロ友のひらいさんが、大山田水門のところにサギが集まっていることがあると書いておられましたので()、確かめに行こうという次第。 揖斐川右岸を歩いて、長良川河口堰を右の写真のように見て、伊勢大橋を越え、大山田水門からいったん上之輪新田を回り、沢南橋あたりから大山田川を養老鉄道の播磨駅のところまで行って引き返します。 新宮西橋から南へ。 くわな特別支援学校、養老鉄道の高架橋を経て帰宅という6. 9㎞コース。 伊勢大橋までは、我が家から1. 5㎞ほど。 桜堤防を越えたあたりで河川敷におります。 例年、このあたりにはヒバリがいます。 今 日も合計6羽ほど(たぶん3ペア)。 揚げ雲雀も見られましたが、これをきれいに写真に撮るのは難しい。 他には、けっこう離れたところから、ケリも飛び立ったのですが、写真には撮れませんでした。 伊勢大橋。 久 しぶりに、また、ナイショで伊勢大橋の下をくぐって行くことにしました(笑)。 橋を潜ると、甚内ポンプ場の排 水樋管のところに出ます。 その先に水門があり、そこで、大山田川が揖斐川に注ぎます。 ひらいさんがサギが集まっているのをご覧になったのは、右の写真の木のあたり。 しかし、今日、ここにいたのは、ダイサギとアオサギが1羽ずつ(右の写真は、いずれも飛び立ったあとですから写っていません)。 右上の写真を撮る前には、ダイサギがいたのですが、すぐに逃げられました。 また、アオサギも、こちらが気づく前に飛び立ちました。 逃げ足が速いこと。 その他は、コガモが4羽と、カルガモが1羽、ヒヨドリが数羽いたのみ。 サギが巣作りをしている様子もありません。 アオサギはもう1羽いましたが、こちらも、近づこうとしただけでサッサと逃亡(苦笑)。 見て、写真を撮るだけなのですか ら、もう少しフレンドリーな対応をしてもらいたいものです。 長いつきあいなのですし(バードウォッチングを始めて7~8年になるはず)。 大山田川の北にある沢北川から、上之輪新田に出ます。 上之輪新田には、ケリでもいないかと思ったのですが、スズメ、ムク ドリの他、ツバメやイワツバメが飛んできていた他には、モズのオスが1羽。 もっと北の方へ行けば、ヒバリなどがいたかも知れません。 上之輪神社に立ち寄って、小休止。 沢南橋に出て、大山田川を遡ります。 コガモは、かなり少なくなったものの、養老鉄道の 播磨駅近くまでの間で合計10羽ほど。 今日は、この間、イワツバメを除いては、ハクセキレイ1羽、キジバト、アオジらしき姿1羽、ヒヨドリ、イソシギ1羽くらいしかいません。 ひょっとしたら、カワセミもと期待したものの、まったく見かけませんでした。 イワツバメはたくさん飛んでいますし、あちこちの巣からも顔を覗かせています。 巣にいるのは、子どもだろうと思います。 もっとハッキリと写真を撮りたいと思うものの、ここは橋の下。 道路から真上を見上げなくてはなりませんので、けっこう大変。 首が痛くなりますし、あまり見上げているとふらつきそうになるのです。 飛んでいるところも撮影にチャレンジしましたが、やはり難しい。 橋の下の川原にイワツバメが降りて来る様子もありましたが、あいにくとちょっと距離があり、クリアには撮れませんでしたし、何をしているのかもよく見えませんでした。 このあと、さらに川を遡って、養老鉄道の鉄橋まで行き、対岸に渡って戻って来たのですが、今日は鳥果はあがりませんでした。 帰り道、の前にある「くわとくガーデン」を見てきました。 ここは、校庭に木を植えた り、木の手入れをして学校の緑を増やす活動として行われていますが、いろいろの花木があり、季節の花を楽しめます。 さすがにソメイヨシノは、ほぼ葉桜になりましたが、八重桜があちこちでよく咲いています。 今日も、近鉄ハイキングはありま すが、さすがにパス(昨日歩いたのと、非常勤、相談会の準備などもありますから)。 今日はいつも通り散歩。 8時20分からほぼ3時間。 住吉神社、九華公園、貝塚公園、内堀公園、京町、田町と5. 左の写真は、三の丸公園のソメイヨシノと蟠龍櫓。 右は、九華公園の奥平屋敷跡にある八重桜。 九華公園には、八重桜は数えるほどしかありません。 九華公園では、外周遊歩道の日当たりのよいところで、つつじがかなり咲いてきています。 本丸跡や、二の丸跡などは、まだほ んのチラホラという感じ。 つつじまつりは、5月1日からですが、もう寒さも戻ってこないでしょうから、これから一気に咲いてくると思います。 本丸跡にある藤棚もご覧の通り。 手入れとか、施肥とかされていないように思いますが、それをすればもっと見事になるのでは ないかという気がします。 ちょっともったいない(他の公園でも、同様です。 桜などもほとんど植えっぱなし。 伐採というか、剪定というか、それはするんですがねぇ)。 何事に付けても「予算がない」のだそうで、街路樹なども、1本おきに切ってしまっているという話も聞きます。 もう少し智慧を働かせて欲しいところです。 今日は、どこへ行っても野鳥の姿をあまり見ませんでした。 揖斐川にはもう水鳥はいません。 三の丸水門のところで、ヒバリは見ましたが、ツグミはいなくなった感じ。 九華公園でも、キンクロハジロは20羽。 ツグミ、シロハラはおらず、シメの鳴き声を聞いた気がしましたが、確認はできません。 いたのはドバト、スズメ、ムクドリ、ハシボソガラス、キジバト、ヒヨドリにわずかなカワラヒワ。 去年は、巣材を運ぶシジュウカラや、巣に就いていると思われるエナガを見ましたが、今年はサッパリ。 貝塚公園も同様。 スズメ、ムクドリ、ヒヨドリとカワラヒワ。 ここも、ツグミ、シロハラは見られませんでした。 もう冬鳥た ちは帰ってしまったのでしょう。 こういう状況ですから、知り合いに会わないと、散歩が早く終わってしまいます(笑)。 散歩コースにあるツバメの巣も、一通り見てきました。 ツバメはよく飛び回っているものの、巣にいるのはまだ少ない状況で す。 左の写真は、博物館の玄関にある巣。 修復作業が進んでいるようですし、ここに行ったとき親ツバメが1羽、飛び出てきました。 ここは営巣してくれそうです。 右は、京町の呉服屋さんの巣。 親ツバメが巣に就いています。 最初に見たときはいませんでしたので、まだ卵はないのではないかと思います。 今日は、3日ぶりにいつものコースへ行きましたが、その分、知人に一通り会えました。 その数10名あまり。 ご夫婦もいらっしゃるので、9組。 私と同年齢から、最高は86歳の男性。 皆、お元気です。 あれこれ世間話に花が咲きます。 私の悪影響を受けて、野鳥に目が向くようになった方や、旅行に行って、城や名所旧跡があると寄り道するようになった方などがあり、笑えます。 決してそういうことを強要しているわけではありません(微笑)。 その知人のお一組から聞いたお話。 奥様は鳥だけでなく、花木にもご興味があり、よくご存じの方。 藤が丘デザイン公園に御衣黄があることをお話ししたら、見に行かれたのですが、その結果、「御衣黄は、2本だけであとの数本は、ウコンだと思う」ということでした。 鑑別点もしっかり教えてもらいました。 なおかつ、市役所に電話したら、まったく要領を得ない返答であった上(御衣黄があることさえ、しっかり把握していないようでした)、さらには「誰かが、落ちていた看板を勝手に付けて、それで間違っているのでしょう」、「満開でないと分からない」、「来年、業者に見に行かせる」などとふざけた返事だったそうです。 「ついでがあったら市役所にキツくいってやってよ」とお怒り。 九華公園にも市役所の担当部署の職員はほとんど来ませんから、私としては「さもありなん」と思えます。 現場の状況を把握しないで、ちゃんとした仕事はできません。 今日は、JRさわやかウォーキング「旧東海道 石薬師宿と鈴鹿「植木まつり」を訪ねて」へ行ってきました。 JR東海の「TOICAエ リア拡大記念」と銘打ったウォーキングです。 というのも、JR関西線では、3月まではICカードが使えたのは、四日市駅まででした。 それが亀山駅までの各駅でも使えるようになったのです。 スタートは、JR関西線・河曲(かわの)駅。 といってもあまり知られていないかも知れません。 関西線の四日市から下り方向には、南四日市、河原田、河曲、加佐登、井田川と続いて、亀山が東海エリアの終点。 河曲駅は、鈴鹿市木田町にあります。 もとは木田信号場として開設され、その後、昭和24(1949)年に鈴鹿駅として開業したものの、周辺の発展ができず、また、駅から市役所まで約20分も歩かなければならず、年々乗降客は減少し、当時、建設中であった国鉄伊勢線(現・伊勢鉄道)で鈴鹿市の中心部である神戸地区に新駅が設置されることをきっかけに新駅の名称を鈴鹿駅とし、こちらを河曲駅に改称しました(昭和48(1973)年)。 元々無人駅で、駅も写真のようにちょっと淋しい状況です。 本日のコースマップ。 河曲駅での受付は、8時半から11時。 佐佐木信綱記念館、石薬師寺(いしやくしじ)、加佐登(かさ ど)神社、鈴鹿フラワーパーク(鈴 鹿市植木まつり会場)、荒神山観音寺と回って、JR関西線・加佐登駅がゴール。 マップ上は、9. このブログをお読みくださっている方には、先刻ご承知と思いますが、加佐登というのは、最初の就職先&一人住まいがあったところです。 石薬師あたりは、その少し四日市寄りにある自由が丘というところには、当時、食事などに来たことがありますが、旧東海道沿いは初めて。 佐佐木信綱記念館も、石薬師寺も訪ねてみたかったところです。 今朝は、JR桑名駅を8時51分に出る亀山行き普通電車に乗車し、河曲駅着は9時20分。 ¥410。 右の画像が、実際に歩いたルート。 若干寄り道していますので、11. 5㎞を歩いてきました。 先日(4月11日)の近鉄ハイキング「お伊勢さん参りハイキング 昔も今もお伊勢参り~旅3日目~東海道、旅人気分で四日市宿から伊勢路へ」も予告編で止まっていますし、非常勤も始まり、また相談会も予定していますので、先行き不透明ではありますが、取り敢えず、今日のところは、予告編(苦笑)。 9時25分に河曲駅をスタートしてすぐに関西線の線路を渡り、田園地帯を進みます。 田植があちこちで行われていました。 以前は、ゴールデンウィークくらいでしたし、われわれが子どもの頃は、6月頃だったように思います。 ずいぶん早くなったもの。 浪瀬川沿いを上流に向かって進み、三重県消防学校と県立石薬師高校の北側を回って、国道1号線を歩道橋で渡って、旧東海道に出ます。 ちなみに、浪瀬川沿いには、何カ所かに「この川にはまむしがたくさん生息しています」などという表示があってビビりました。 旧東海道に入ったところで、スタートからは2. 8㎞ほど。 時刻は、10時。 旧東海道は、桑名の七里の渡し跡から四日市の日永の追分までは歩きましたが、石薬師宿あたりは初めて(この先の庄野宿は、近鉄ハイキングで半分くらい歩いています(2018年12月6日:))。 石薬師宿(いしやくししゅく、いしやくしじゅく)は、東海道五十三次の44番目の宿場です。 元和2(1616)年に宿場となっています。 徳川家康が、東海道を制定したのが慶長6(1601)年ですから、15年ほど遅れています。 四日市と亀山の間が長すぎたので、高富村にあった集落を東海道の通る台地の中央部に移して、村落にして、石薬師と名づけたといいます。 石薬師の名前は、石薬師寺に由来します。 今日歩いた東海道は、ここから石薬師一里塚跡まで。 東海道に入って100mほどの右側(西側)に、小澤本陣跡があります。 表示は2ヶ所ありましたが、いずれも本陣の敷地だといいます。 大名の名前が書かれた「関札(せきふだ、ともいう)」や、江戸時代の宿帳が残されていて、赤穂城主・浅野内匠頭の名前もあるそうです。 この近くに松の大木があったので、「松本陣」ともいったという話があります。 小澤本陣跡の向かいには、園田家が務めた問屋場がありました(と書きつつも、見忘れました。 気づいたときには、かなり進んでいて、戻る元気が出ませんでした……苦笑)。 小澤本陣跡のすぐ先、やはり右側に本町集会所となっている「天野記念館」があります。 ここは、タイムレコーダーで名高いの創業者・(明治23(1890)~昭和51(1976)年)翁が、昭和39(1964)年に故郷である石薬師町本町のために建てたものです。 天野修一翁は鈴鹿市に奨学資金を寄贈して若人の育英に偉大な功績をあげています。 前庭にある記念碑の「天野記念館」の文字は天野修一翁の揮毫によるもの。 スタートからほぼ3㎞、石薬師小学校の隣に「」があります。 この記念館は、佐佐木信綱資料館、信綱の生家、 石薬師文庫、土蔵からなっています。 歌人であり、国文学者として有名な(明治5(1872)~昭和38(1963)年、の長男)は、三重県鈴鹿郡石薬師村(現鈴鹿市石薬師町)に生まれています。 資料館には、第1回の文化勲章をはじめ、信綱の著作や遺品が展示されています(資料館は昭和61(1986)年に完成)。 生家は、昭和45(1970)年に移築されています。 こちらは、石薬師文庫。 佐佐木信綱が、昭和7(1932)年、還暦にあたり、旧石薬師村に寄贈したものです。 以前からあった 土蔵を文庫として、この建物は閲覧所として建てられました。 伊勢国学に関する多くの版本や写本を含む貴重な書籍が贈られています。 現在は、地域の図書館としてボランティアにより運営されています。 この石薬師文庫の前には、距離標(石薬師村の道路元標)が立っています。 碑表には「距 津市元標へ 九里四町十七間」とあります(35. 8㎞ほど)。 佐佐木信綱といえば、もちろん上述のように、歌人、国文学者として有名ですが、私には、唱歌「」の作詞者として のイメージが強くあります。 「卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ほととぎす) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」が浮かんでくるのです。 「卯の花」は、。 記念館の敷地だけでなく、石薬師の町中には至る所に、この卯の花が植えられています。 記念館の玄関脇の日当たりのよいところでは、もう咲き始めていました。 佐佐木信綱資料館で、珍しく土産を買ってしまいました。 栞です。 右の3つは、伊勢型紙のものでこれらが1セット。 左は、卯 の花の押し花であろうと思いますが、そこに「卯の花の匂ふ垣根に」と手書きで添えられています。 これは、家内の母へ。 余談ですが、家内の母は私が読み終え、謹呈した時代小説を読んでいるのです。 さらに、資料館前に地元の「」という和菓子屋さんが出張販売。 「卯の花もち」、1個¥110でしたので、お買い上げ(微笑)。 途中、どこかでおやつにするつもり。 佐佐木信綱記念館を出て、石薬師小学校南の交差点を渡ったところには、浄福寺という真宗高田派のお寺があります。 山門の 前の石の築山の上に信綱の父・弘綱の記念碑が建っています。 ここは佐々木家の菩提寺。 開基は、室町時代の永正年間(1504~1520年)と伝わっています。 記念碑には、「わかの浦に 老いを屋しなふ 阿し堂徒盤(あしたずは) 雲の宇辺越(うえを)も よそに見類(みる)か難(な)」。 浄福寺の先にある交差点には、道標と、川はないのに橋の親柱が残っています。 親柱には、「南町橋」とあります。 道標に は、「上田加佐登」と刻まれています。 上田も、加佐登もこれから歩いて行く先の地名。 道標は、大正13(1924)年に(弘化5(1848)~大正5(1916)年)が建てたもの。 田中音吉は、実業家で、米穀・製茶業を営んでいたのですが、前橋や八王子の蚕糸業を視察し、明治20(1887)年、郷里の三重県鈴鹿郡亀山で製糸業を始めました。 明治30(1897)年には、亀山共同社(のちの亀山製糸会社)を設立しています。 さらに石薬師の町を進み、3. 6㎞ほどのところで国道1号線にかかる瑠璃光橋(あとから知ったのですが、この「瑠璃光」は、石薬師寺の旧名によります)を渡ります。 ここはまだ旧東海道 のルート。 1号線を越えるとすぐにがあります。 ご本尊は、弘法大師自らが、一夜にして爪で刻んだとされている薬師如来像。 秘仏になっていて毎年12月20日のおすす取りに合わせて、開扉されます。 真言宗東寺派のお寺。 寺伝によれば、神亀3(726)年、(奈良時代の山岳修験者。 加賀国白山を開創したと伝えられる)が、当地で巨石の出現を見、薬師如来の示現と悟り、草庵を設け供養したことが開創とされています。 その後、弘仁3(812)年、空海(弘法大師)が、巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い、人々の信仰を集めたことにより、(在位809年 — 823年)は勅願寺とし、荘厳な寺院を建立し、名を高富山 西福寺 瑠璃光院と称していたといいます。 ちなみに、安藤広重が描いた「東海道五十三次」の石薬師宿には、この石薬師寺がモチーフになっています。 この石薬師寺で11時前。 小腹も空いてきましたし、歩き始めから1時間半近くになりますので、先ほど、佐佐木信綱記念館の前でゲットしてきた「卯の花もち」をいただくことにしました。 包みを開けたら、こんな風。 イメージとしては、桑名や四日市で売っている「」を丸くしたもの。 食べてみても、まさにその通りでした。 三重県内の東海道・伊勢街道は、「」と言われるくらい。 あちこちでいろいろなタイプのお餅、あるいはそれに類した菓子が名物になっています。 一息ついて、次へ。 今回はあまり予習をしてこなかったのですが、石薬師宿については、「ホントに歩く東海道(風人社)」と「チャント歩ける 東海道五十三次 袋井宿~京三条大橋(山と渓谷社)」の該当箇所だけは見てきました。 それによると、石薬師寺のすぐ東に「蒲冠者範頼之社(かばのかんじゃのりよりのやしろ)」があると書かれていました。 範頼は、(みなもとののりより)で、の第6子、の弟。 蒲冠者と称しました。 頼朝の命令で、弟・とともに西国への遠征隊の総指揮官となりました。 学問武芸に秀で、願望成就の神として信仰されています。 ここは、御曹子社(おんぞうししゃ)ともいうようです。 鳥居の脇に「蒲桜」への案内があります。 案内にしたがって60mほど南へ行くと、「(かばざくら)」がありました。 三重県指定天然記念物。 寿永年間(1182~ 84年)の頃、蒲冠者源範頼が平家追討のため、西へ向かう途中、石薬師寺に詣でて武運を祈願し、戦運を占うため鞭にしていた桜の枝を地面に逆さに挿して、「我が願い叶いなば、汝地に生きよ」と言って去ったのち、生長したのがこの蒲桜であるという言い伝えがあります。 ヤマザクラの変種の一つで、赤茶の芽、花は一重の五弁、直径5cmで白~淡紅色。 まだ花が残っていました。 「蒲桜」を見てから指定されたルートに戻り、南へ。 スタートから4. 6㎞のところに、「」。 江戸・日本橋からは、百二里。 1里は約3. 927kmですから、400. 現在は、塚はありませんが、土手にエノキが植えられています。 蒲川の西岸に位置し、かつては東海道の両側に榎が植えられてのですが、もともとあったエノキは、伊勢湾台風で折れたそうです。 今あるエノキは、昭和52(1977)年に若木が植えられ、そのときに「史跡石薬師の一里塚跡」の碑が建てられています。 また、ここには、石薬師宿の標柱があります。 東海道はここから、左折して西へ。 JR関西線をくぐって、加佐登から庄野宿に向かいますが、ウォーキング・コースは直進し、国道1号を越えて(潜ります)、鈴鹿市上田町へ。 今日は、これで国道1号を3回横切りました。 石薬師一里塚跡から2. 2㎞ほど登って来ると、に出ます。 このあたりは、かつて働いていたときにも何度か来ていま す。 前にも書きましたが、当時所属していた野球部で(おまえが野球部?というツッコミは、今回はスルーします)、花見などあれこれ理由を付けて、宴会、BBQに来ていました。 ただ、当時も今も、この表参道から神社に行くのは、大変。 右の写真のように、こういう階段になった参道を5分も登る必要があります。 この5分というのは、鳥居近くの境内案内板にある数値。 写真はありませんが、階段下には、「必要な方はお使いください」と杖が置いてあります(笑)。 今はまだ大丈夫ですが、そのうち必需品になります。 主祭神は、。 相殿神は、天照大御神、豊受大神、火之迦具土神、気吹土主神、速玉之男命、天羽槌雄神、大国主命、伊邪那美神、伊邪那岐神、大雀命、建速須佐之男命、菅原道真、品田和気命、予母都事解之男神、息長帯比売命、大山津見。 相殿神はまだ調べていませんので、今日のところはリンクはありません。 日本武尊の能褒野(のぼの)陵墓と伝えられた白鳥塚古墳の横に鎮座し、尊が死の間際まで持っていたといわれる笠と杖をご神体として祀っています。 延喜式神名帳にある、伊勢国鈴鹿郡の倭文神社(しとりじんじゃ)を合祀したと伝えられます。 ここも、先日訪ねた伊奈富神社と同様に、紫ツツジの名所(2019年4月12日:)。 古来、御笠殿社(みかさどのしゃ)と呼ばれていました。 江戸時代後期の国学者・は「御笠殿社由来記」(1829年)で、腫物などの病に霊験あると記しているそうです。 境内にはやがあったと伝えられます。 明治6(1873)年に「笠殿」(かさどの)から現社名へ改め、明治41(1908)年に近隣の神社16社を合祀し、現在の姿となっています。 このため、相殿神がたくさんいらっしゃるというわけです。 加佐登神社に着いたのが11時45分頃でしたので、ここで昼食。 今日は、自宅から持参したおにぎり2つ。 おにぎり2つを食べ終え、12時15分に再スタート。 加佐登神社の北西にあるを見に行きます。 ここは日本武尊の墓 といわれ、その霊が白鳥となって飛び去ったという伝説が残されています。 7基から成る白鳥塚古墳群の主墳で、三重県下最大のです。 本居宣長や平田篤胤ら江戸時代後期の国学者の多くが、白鳥塚を古事記にあるヤマトタケルの能褒野(のぼの)陵墓として最有力視していました。 明治9(1876)年、教部省は白鳥塚をヤマトタケル陵墓と治定したのですが、明治12(1879)年に宮内省はそれを覆し、丁子塚(現亀山市)を治定しました。 以後、丁子塚がヤマトタケル陵墓()とされています。 加佐登神社の北西にある。 ここは、季節 折々の花が色鮮やかに咲き、噴水や花の丘、桜の広場、野点広場などの施設があります。 また、大型複合遊具などもあり、お子さんを連れた家族で賑わっています。 植木まつりではありますが、庭もないのに植木を買って持って帰るわけにもいきませんので、通過(微笑)。 鈴鹿フラワーパークのほぼ隣にはがあります。

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吉川英治 大岡越前

市川いっかさつがい 犯人

[やぶちゃん注:本篇についての詳細はの私の冒頭注を参照されたい。 歌の表示はブラウザの不具合を考えて底本のものを上に引き上げてある。 小泉八雲の〔 〕書き割注(〔 〕のポイント落ち)も、同ポイントで引き上げた。 「万葉集」の校合や注には中西進氏の講談社文庫版を参考にした。 小泉八雲は必ずしも順番に引用していない。 一部で前後しているので注意されたい。 ] これ等の歌の多くのものに於て、妻の方が夫に會ひに天の川をまめまめしく渡るのではなくて、夫の方が妻に會ひに川を漕ぎ渡るといふこと、また鳥の橋のことには少しも言ひ及んでないことが觀られるであらう。 ……自分の飜譯については、日本の詩句を飜譯するの困難を經驗して知つて居らるる讀者諸君は、最も寬容であらるることと自分は思ふ。 自分は(アストンが採用した方法に從つて古風な綴音を示す方がよいと考へた一二の場合を除いて)羅馬字綴りを用ひた。 そして必要上補充した語なり句なりは、括弧で括つて置いた。 [やぶちゃん注:「アストン」イギリスの外交官で日本学者のウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)。 十九世紀当時、始まったばかりの日本語及び日本の歴史の研究に大きな貢献をした、アーネスト・サトウ、バジル・ホール・チェンバレンと並ぶ初期の著名な日本研究者である。 詳細は参照したを参照されたい。 ] 天の川相向き立ちて我が戀ひし 君來ますなり紐解きまけな 〔この最後の句は非常に古い日本文學に記載されて居る面白い習慣を指して居る。 戀人は、分れる前に、互の内側の帶(ヒモ)を結んで、つぎに會ふ時までその結びに手を觸れずに置くことを約束する習はしであつたのである。 ] 久方の天の川洲に船うけて 今宵か君があがり來まさん 〔ヒサカタノは天(そら)の物に關して古の歌人が用ひた「枕詞」でゐつて、飜譯するのが困難なことが往往ある。 だから、ヒサカタは『蒼空の』といふ意味になると言ふ。 處が日水の註譯者は此言葉はヒ(日)、サス(射す)、カタ(方)の三語で出來て居ると言ふ。 枕詞のことについてはアストンの 日本文語文典を見られたい〕 [やぶちゃん注:「万葉集」巻第八の、やはり山上憶良の一首(一五一九番)。 後書に「右は、神龜元年七月七日の夜に、左大臣(ひだりのおほまへつきみ)の宅(いへ)」とある。 「神龜元年」は七二四年で、長屋王の屋敷での詠歌。 ひさかたの天(あま)の川(かは)瀨に船浮(う)けて今夜(こよひ)か君が我許(わがり)來(き)まさむ 「ひさかたの」は以上のような説もあるが、小学館「日本国語大辞典」によれば、現在でも語義・語源は未詳とする。 ] 風雲は二つの岸に通へども わがとほつまのことぞ通はぬ [やぶちゃん注:この歌もやはり同巻第八の山上憶良が七夕を詠んだ十二首の歌の内の一つ(一五二一番)、前の一五二〇番の長歌に添えられた反歌の一つ目。 風雲(かぜくも)は二つの岸に通へども わが遠妻(とほづま)の言(こと)そ通はぬ 第四句目は別に「はしづまの」とする注記が附く。 「わが遠妻」は「私の遠くにいる妻」。 「はしづま」は「愛しい妻」の意。 ] つぶてにも 原註四投げ越しつべき天の川 隔てればかもあまたすべなき 原註四 古書にはツブテはタブテとある。 [やぶちゃん注:同前の反歌の二つ目(一五二二番)。 礫(たぶて)にも投げ越しつべき天の川 隔てればかもあまた術(すべ)無き 後書があり、「右は、天平元年七月七日の夜に、憶良、天の川を仰ぎ見たり。 【一に云はく、師(そち)の家の作】」とある。 「天平元年」七二九年だが、厳密には神亀六年が正しい。 この年の改元は八月五日であるからである。 「帥」は大伴旅人。 ] 秋風の吹きにし日よりいつしかと わが待ちこひし君ぞ來ませる [やぶちゃん注:「万葉集」巻第十の「七夕(なぬかのよ)九十八首」の中の詠み人知らずの一首(二〇八三番)。 秋風の吹きにし日より天の川瀨に出で立ちて待つと告げこそ 「こそ」動詞の連用形に付いて、他に対する願望を表わす終助詞。 「~してほしい。 ~てくれ。 ] 天の川いと川波は立たねども さもらひがたし近きの瀨を [やぶちゃん注:既注の「万葉集」巻第八の山上憶良が七夕を詠んだ十二首の歌の一つ(一五二四番)。 天の川いと川波は立たねども伺候(さもら)ひ難(かた)し近きこの瀨を 「天の川にひどく川波が立っているわけではないのに、川の様子をまず見ようとしてもその船さえも出せない。 これほど、川瀬が近く見えるのに!」の意。 何故、船出出来ないのか不明だが、牽牛の焦りを読んだものではある。 ] 袖振らば見もかはしつべく近けれど 渡るすべなし秋にしあらねば [やぶちゃん注:憶良の同前の次の歌(一五二五番)。 袖振らば見もかはしつべく近けども渡るすべ無し秋にしあらねば 牽牛の立場から。 ] かげろひの 原註五ほのかに見えて別れなば もとなや戀ひん逢ふ時までは 原註五 カゲロヒはカゲロウの古語、陽炎。 [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二六番)だが、 初句の読みが現行と異なる。 玉かぎる髣髴(ほのか)に見えて別れなばもとなや戀ひむ逢ふ時までは これは後書があり、「右は、天平二年[やぶちゃん注:七三〇年。 ]七月八日の夜に、師(そち)の家に集會(つど)へり」とする。 「かぎる」から「かげろひ」は派生したものだが、「玉かぎる」がしっくりくる。 玉が一瞬キラリと光るように、ほんのわずかの間、逢っただけで別れてしまったなら心もとない思いがずっと続くのだなぁ……また逢う日まで、ずっと…… といった謂い。 ] 彥星の妻迎船漕ぎづらし 天の川原に霧の立てるは [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二七番)。 牽牛(ひこぼし)の嬬迎(つまむか)へ船(ぶね)漕ぎ出(づ)らし天(あま)の川原(かはら)に霧の立てるは で作者の観察景仕立て。 ] 霞立つ天の川原に君待つと いかよふほどにものすそ濡れぬ [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二八番)。 霞立(かすみた)つ天の川原(かはら)に君待つといゆきかへるに裳(も)の裾ぬれぬ で迎える織姫の立場から。 ] 天の川水の波音騷ぐなり わが待つ君のふなですらしも [やぶちゃん注:憶良の同前の次の一首(一五二九番)。 但し、 二句目の読みが現行と異なる。 天の川ふつの波音騷くなりわが待つ君し舟出すらしも 「ふつ」は「皆・すっかり」。 「し」強意の副助詞。 ] 七夕の袖卷く宵のあかときは 川瀨のたづは鳴かずともよし [やぶちゃん注:「万葉集」巻第八の湯原王(ゆのはらのおほきみ)の七夕(なぬかのよ)歌二首の二つ目(一五四五番)。 但し、 二句目の読みが現行と異なる。 織女(たなばた)の袖つぐ夜(よる)の曉(あかとき)は川瀨の鶴(たづ)は鳴かずともよし 「つぐ」は「続ける・くっつける・交わす」。 ただ、「卷く」でもシチュエーションとしては問題はない。 ] 天の川霧立ち渡るけふけふと 我が待つ戀ひしふなですらし [やぶちゃん注:「けふけふ」の後半は底本では踊り字「〱」。 「万葉集」巻第九の「七夕(なぬかのよ)の歌一首幷(あは)せて短歌」の後者。 前書は「反歌」(作者未詳・一七六四番)。 但し、現行とは下の句が異様に異なる。 天の川霧立ち渡る今日今日とわが待つ君し舟出すらしも 小泉八雲のローマ字の転記ミス。 ] 天の川安の渡りに船うけて わが立ち待つといもにつげこそ 原註六 原註六 日本古語ではイモは「妻」と「妹」と兩方を意味してゐる。 「いとしの者」といふ語に譯してよからう。 [やぶちゃん注:「万葉集」巻第九の「七夕(なぬかのよ)九十八首」の中の一首(作者不詳(以下同じ)・二〇〇〇番)。 天の川安(やす)の渡(わたり)に船浮(う)けて秋立ち待つと妹に告げこそ 「天の川」は高天原神話に登場する「安の川」と同一と考えたもの。 そこには川原があって、牽牛が織女のもとへと通う際に乗る、船の船着き場があると捉えたもの。 ] おほそらよ通ふわれすらながゆゑに 天の川路のなづみてぞこし [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇〇一番)。 但し、 初句の「よ」は「ゆ」が正しい。 小泉八雲の転写ミス。 大空ゆ通(かよ)ふわれすら汝がゆゑに天の川路(かはぢ)をなづみてぞ來し 「ゆ」は経過点を示す格助詞。 万葉時代の歌語。 ] 八千矛の神の御世よりともしづま 人知りにけりつぎてし思へば 〔ヤチホコノカミ、これには他にも名が多くあゐが、此神は出雲の大神で、普通にはオホクニヌシノカミ卽ち「大國主神」として知られて居る。 ツマ(ヅマ)といふ語は、古代日本にあつては、妻とも夫とも意味した。 だから、この歌は妻の思ひを叙べたものとも、或は夫の思ひを叙べたものとも解してよからう〕 [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇〇二番)。 八千戈(やちほこ)の神の御代より乏(とも)し妻(づま)人知りにけり繼ぎてし思へば 「乏し妻」とは「逢うことが稀な妻」の意。 「繼ぎてし思へば」は「かくも私が絶えることなく思い続けているから」の意。 ] あめつちと別れし時ゆおのがつま しかぞてにある 原註七秋待つあれは 原註七 古の曆では七月の七日は秋季。 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇〇五番)。 四句目の字余りは原歌のままである。 天地と別れし時ゆ己(おの)が妻然(しか)ぞ年にある秋待つ我れは 「天地開闢以来、私の妻には、かくも、年に一度しか会えぬのだ! だから秋を待ち焦がれるのだ! 私は!」の意。 ] わが戀ふるにほのおもは今宵もか あまの河原に石枕まく [やぶちゃん注:「おもは」 は訳者大谷のミス。 同前の一首(前歌より前・二〇〇三番)。 わが戀ふる丹(に)の穗(ほ)の面(おもわ)今夕(こよひ)もか天の川原に石枕(いしまくら)まく 「丹(に)の穗(ほ)の面(おもわ)」「丹色が秀でている顔」で「匂うような美しい顔」。 牽牛が織女のことを想像して仮想したもの。 石を枕にして独り寝しているのは織女。 ] 天の川みこもりぐさの秋風に なびかふ見れば時來るらし [やぶちゃん注:同前の一首(二〇一三番)。 但し、 「みこもりぐさ」が現行と異なる。 天の川水蔭草(みづかげぐさ)の秋風に靡(なび)かふ見れば時は來にけり 「水蔭草」は川辺の草。 ] わがせこに 原註八うらこひおれば天の川 よふね漕ぎとよむかぢのときこゆ 原註八 古代の日本語ではセコという語は夫か兄を意味した。 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇一五番)。 下の句の字余りは原歌のままである。 「おれば」は原本のママ。 小泉八雲は口語表記に変えてしまっている。 わが背子にうら戀ひ居(を)れば天の川夜船漕ぐなる楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ 「なる」伝聞推定の助動詞。 ] 遠妻とたまくらかはし寢たる夜は とりがねななき明けばあくとも 〔「玉枕を取り換はす」とは互の手を枕に用ひるといふ意味。 この詩的な句は、よく最初の日本文學に用ひられて居る。 玉(タマ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。 ]といふ語は「貴とい」、「親しい」とかいふ語と同意味に、よく複合詞に用ひられる〕 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇二一番)。 原歌は以下のように最終句が字余り。 遠妻(とほづま)と手枕(たまくら)交(か)へて寢(ぬ)る夜は鷄(とり)が音(ね)な鳴き明けば明けぬとも 「な」は禁止の副詞。 最終句は「夜が明けてしまったなら、それはそれで仕方がないのだが」の意。 ] よろづよにたづさはり居てあひみども おもひすぐべき戀ならなくに [やぶちゃん注:同前の一首(二〇二四番)。 万代に携(たづさ)はり居て相見(あひみ)とも思ひ過ぐべき戀にあらなくに 「思ひ過ぐべき戀にあらなくに」「思いが消えてしまうような恋ではないのに」の意。 ] 我が爲とたなばたつめのその宿に 織れる白妙ぬいてきんかも [やぶちゃん注:同前の一首(二〇二七番)。 わがためと織女(たなばたつめ)のその屋戶(やど)に織る白栲(しろたへ)は織りてけむかも 「織り終ったかな?」という牽牛の想像。 ] しら雲の五百重かくりて遠けども よひさらず見ん妹があたりは [やぶちゃん注:同前の前の一首(二〇二六番)。 現行とは四句目に異同がある。 白雲の五百重隱(いほへがく)りて遠(とほ)けども夜(よる)去らず見む妹があたりは 「白雲の五百重隱(いほへがく)りて遠けども」「白雲が幾重にも重なり合って、織女のいる方は隠れて見えないし遠いけれど」の意。 ] 秋されば川霧たてる天の川 川に向き居て戀ふ夜ぞ多き [やぶちゃん注:同前の一首(二〇三〇番)。 秋されば川霧立てる天の川川に向き居(ゐ)て戀ふる夜そ多き 係助詞「ぞ」は古くは清音で、上代には「そ」「ぞ」が併存していた。 ] ひととせになぬかの夜のみ逢ふ人の 戀もつきねばさよぞあけにける [やぶちゃん注:同前の一首(二〇三二番)。 一年に七日の夜のみ逢ふ人の戀も過ぎねば夜は更(ふ)けゆくも であるが、別に、 一年に七日の夜のみ逢ふ人の盡きねばさ夜そ明けにける の異形が原本に示されてある。 ] 年の戀今宵つくして明日よりは 常のごとくや我が戀居らん [やぶちゃん注:同前の一首(二〇三七番)。 年の戀今夜(こよひ)盡して明日よりは常のごとくや我が戀ひ居(を)らむ 「や」疑問の係助詞。 ] 彥星とたなばたつめと今宵あふ 天の川戶に波立つなゆめ [やぶちゃん注:同前の一首(二〇四〇番)。 彥星(ひこぼし)と織女(たなばたつめ)と今夜(こよひ)逢ふ天の川門(かはと)に波立つなゆめ 「川門」川の流れが狭くなっているところ。 渡し場はそこ。 「な」禁止の副詞。 「ゆめ」「努・勤」で呼応の副詞で通常文では下に禁止・命令表現を伴う。 ] 秋風の吹きただよはすしら雲は たなばたつめの天つひれかも 〔日本の夫人服裝史に於て、時代を異にして、異つた衣裳品が此名で呼ばれて居た。 此歌の場合では、云ふところのヒレは、頸のまはりに著けて、肩の上から胸へと下して、其處で垂らしたままで置くか、又は或る飾り結(むすび)に結んだ白いスカアフであつたらしい。 ヒレは、今日同じ目的に手巾[やぶちゃん注:「ハンカチ」或いは「ハンケチ」と読んでおく。 ]を振るやう、それで合圖をするによく用ひた。 秋風の吹きただよはす白雲は織女(たなばたつめ)の天つ領巾(ひれ)かも 「領巾(ひれ)」は元々は呪具であった。 私は「魂振り(魂呼び)」の一呪法と見る。 ] しばしばも相見ぬ君を天の川 船出はやせよ夜の更けぬまに [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇四二番)。 しばしばも相見ぬ君を天の川舟出(ふなで)早(はや)せよ夜の更けぬ間に 織女の焦りをモチーフとしたもの。 ] 天の川霧立ち渡り彥星の かぢのとさこゆ夜の更け行けば 〔カヂといふ語は今は「舵」。 「艫」(とも)の誤記か誤植。 ]に乘せて、同時に舵の役も櫂役もする一本の櫂(ヲオル)で匕橈(スカル)、今、ロと呼んで居るもの。 註釋家の說に據ると、天の川を橫ぎつて居る霧は星神の櫂の飛沫であるといふ〕 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇四四番)。 第四句は小泉八雲の転写ミス。 天の川霧立ちわたり彥星の楫(かぢ)の音(おと)聞こゆ夜の更けゆけば の字余りが正しい。 ] 天の川かはとさやけし彥星の はや漕ぐ舟の波の騷か [やぶちゃん注:同前の一首(二〇四七番)。 天の川(かは)川音(かはと)淸(さや)けし彥星の秋漕ぐ舟の波のさわきか 「騒ぐ」は上代は清音。 ] このゆふべ降り來る雨は彥星の はや漕ぐ舟の櫂(かい)のちりかも [やぶちゃん注:同前の一首(二〇五二番)。 この夕(ゆふべ)降り來(く)る雨は彥星の早(はや)漕ぐ舟の櫂(かい)の散(ちり)かも 「散(ちり)」水飛沫。 ] あすよりはわがたまどこを打拂ひ 君といねずてひとりかも寢ん [やぶちゃん注:同前の前の前の一首(二〇五〇番)。 明日よりは我が玉床(たまどこ)をうち掃ひ君と寢(い)ねずてひとりかも寢(ね)む 「玉床」壻(むこ)迎えの飾ったベッド。 牽牛の心境であろう。 ] 風吹きて川波立ちぬ引き舟に 渡り來ませ夜の更けぬまに [やぶちゃん注:同前の一首(二〇五四番)。 風吹きて川波立ちぬ引船(ひきふね)に渡りも來(きた)れ夜の更けぬ間に だが、別な訓では「渡り來ませ」もあるようだ。 ] 天の川波は立つとも我が舟は いざ漕ぎいでん夜の更けぬまに [やぶちゃん注:同前の一首(二〇五九番)。 天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に] いにしへに織りてし機をこのゆふべ ころもにぬひて君待つあれむ [やぶちゃん注:同前の一首(二〇六四番)。 いにしへゆ織(お)りてし機(はた)をこの夕(ゆふべ)衣(ころも)に縫(ぬ)ひて君待つわれを 「を」は詠嘆の間投助詞。 ] 天の川瀨を早みかもぬばたまの 夜は更けにつつあはぬ彥星 [やぶちゃん注:同前の一首(二〇七六番)。 天の川瀨を早(はや)みかもぬばたまの夜(よ)は更けにつつ逢はぬ彥星 ちょっと変わった意地悪な客観想起設定である。 ] わたし守船早や渡せひととせに 再びかよふ君ならなくに [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇七七番)。 渡守(わたしもり)舟早(はや)渡せ一年に二たび通ふ君にあらなくに ここでは牽牛は自分で漕がずに、渡し舟で船頭の漕ぐそれでやってくる設定にしてあるのである。 ] 秋風の吹きにし日より天の川 川瀨にてたち待つと告げこそ [やぶちゃん注:同前の次の一首(二〇八三番)。 秋風の吹きにし日より天の川瀨に出で立ちて待つと告げこそ] 七夕のふなのりすらしまそかがみ きよき月夜に雲立ち渡る 〔天平十年(紀元七百三十八年)七月の七日、天の川を眺めながら、かの有名な大友[やぶちゃん注:ママ。 ]宿禰家持が作つたもの。 三句目の枕詞(マソカガミ)[やぶちゃん注:ルビではなく、本文。 ]は飜譯が出來ぬ〕 [やぶちゃん注:「万葉集」巻第十七の、大伴家持の、天平「十年の七月七日に、大伴宿禰家持の、獨り天漢(あまのがは)を仰ぎて、聊(いささ)かに懷(おもひ)を述べたる歌一首」(三九〇〇番)である。 現行表記とやや異なる。 織女(たなばた)し舟乘(ふなの)りすらしまそ鏡淸き月夜(つくよ)に雲立ち渡る 家持二十歳頃の作。 これは織女が出向く形だが、これは中国の伝説のままなのであっておかしくないのである。 「まそ鏡」はもとは神聖なる鏡を褒めてていう語で「立派な鏡」のことであったが、「鏡を見る」の意から転じて、「見る」にかかる枕詞となったものである。 「霧」はその織女の乗る舟の乗り出す飛沫(しぶき)ととっているのである。 「し」は強意の副助詞であろう。 ] しかるに、日本の昔の歌人は星空に何の美をも認め得なかつた! と眞面目に主張され來たつて居る。 …… [やぶちゃん注:感嘆符の後の字空けは底本にはない。 特異的に入れた。 ] 恐らく如上の昔の歌人が了解して居たやうな、七夕傳說は西洋の人の心にはただ微かにしか訴へ得ないであらう。 にも拘らず、澄み切つた靜寂の夜、月の昇る前に、この古い物語の妙趣が、熒熒[やぶちゃん注:「けいけい」。 小さくきらきらと輝くさま。 すると自分はもはや天の川をば、その幾億萬の太陽も奈落を照す力を有たぬ[やぶちゃん注:「もたぬ」。 自分にはその光つて居る川のおののきが見え、その川岸にたゆたふ霧が見え、秋風に靡く水草が見える。 白い織姬がその星の機に坐つて居るのが見え、向うの岸に草を喰んで居る牛が見える。 [やぶちゃん注:本篇についての詳細は の私の冒頭注を参照されたい。 歌の表示はブラウザの不具合を考えて底本のものを上に引き上げてある。 ] 我が讀者諸君は七夕傳說を取扱つて居る、日本の古歌の次記の選擇を見て興味を感ぜらるる筈と思ふ。 これ等は悉く『マンエフシウ』から採つたものである。 『マンエフシウ』卽ち『萬の葉の集り』といふは八世紀の半ば前に作られた大歌集である。 勅命に依つて編纂されたもので、九世紀の初めに完成された。 その中にある歌の數は四千の上にのぼる。 『長い歌』(ナガウタ)もあるが、大多數はタンカ卽ち三十一文字に限られて居る作品で、そして作者は廷臣か高官かであつた。 つぎに飜譯する初めの十一の短歌は千百年以上も前に筑前の國の守(かみ)であつた山上憶良が作つたものであり、その作のうちの少からずが希臘詩選中の より立派な奇警詩(エピグラム)の或る物と比肩するに足るから、氏の歌人としての名聲は頗る當然のものであつた。 その幼兒フルビが死んだ折に物しら、つきの歌は例證とするに足るであらう。 九〇四番の長歌の反歌。 九〇四の詞書に、「男子(をのこ)の、名は古日(ふるひ)に戀ひたる歌三首【長一首短二首】」とある。 自分の幼子「古日」の死を悼むものである。 稚(わか)ければ道行き知らじ幣(まひ)は爲(せ)む黃泉(したへ)の使(つかひ)負(お)ひて通(とほ)らせ 「道」は死出の旅路、「幣」は贈り物・捧げ物。 「通らせ」尊敬の命令形。 「行かせてやって下さい」。 「Sardis」(サルディス又はサルデス)現代のトルコ共和国マニサ県サルトにかつてあった古代リュディア王国の首都。 (グーグル・マップ・データ)。 以下は底本では全体が二字下げ。 前後を一行空けた。 ] この蘆の湖の水の上を、冥土指して死者の船を漕ぐなる汝ケエロンよ、キニラスの子が舷[やぶちゃん注:「ふなばた」。 ]の梯子を登る時、汝が手を伸ばして受け迎へよや。 穿てる草履はかの子を滑らしむべく、また岸の砂を肌足にて踏まんことは恐るれば。 然るに憶良の歌は父が子に對する思慕の情を我我に言ひ現はして居るのである。 ハーデースはギリシア神話の冥府の神。 冥界の代名詞ともなった。 「カローン」或いは「カロン」が一般的(この大谷の音写ではギリシア神話の半人半馬の怪物ケンタウロスの一人である「ケイロン」(Cheiron)と誤るのでよくない)。 ギリシア神話に登場する神に準ずる存在で、冥界の河「ステュクス」(「憎悪」の意)或いはその支流「アケローン」(悲嘆)の渡し守で、「エレボス」(闇)と「ニュクス」(夜)の息子とされる。 「キニュラース」或いは「キニュラス」(ラテン文字表記:Cinyras)は、ギリシア神話に登場するフェニキアの王。 実の娘であるミュラーに思いを寄せられ、夜の闇によって相手が十二歳の娘だということを知らずに近親相姦を行ったが、やがて相手が娘だということを知ることとなる。 娘との間にアドニスが生まれた。 妻はケンクレイス(以上は に拠る)。 ギリシア神話に登場する美と愛の女神アプロディーテーに愛された美少年(神ではなく人間)。 フェニキアの王キニュラースとその王女であるミュラーの息子。 この名は後、美しい男性の代名詞としてしばしば用いられる。 によれば、『アドーニスは狩りが好きで、毎日狩りに熱中していた。 アプロディーテーは狩りは危険だから止めるようにといつも言っていたが、アドーニスはこれを聞き入れなかった。 アドーニスが自分よりもアプロディーテーを選んだことが気に入らなかったペルセポネーは、アプロディーテーの恋人である軍神アレースに、「あなたの恋人は、あなたを差し置いて、たかが人間に夢中になっている」と告げ口をした。これに腹を立てたアレースは、アドーニスが狩りをしている最中、猪に化けて彼を殺してしまった』。 『アプロディーテーはアドーニスの死を、大変に悲しんだ。 やがてアドーニスの流した血から、アネモネの花が咲いたという』とある。 ] 七夕の傳說は實に、支那から借りたものではあるが、讀者は次記の作に何等支那らしいところを見出されぬであらう。 いづれも外國の感化を受けてゐない昔の古典的な歌のその最も純なるものを代表して居るもので、千二百年前の日本人の生活と思想との情態[やぶちゃん注:ママ。 大谷の癖。 ]について、幾多の暗示を我我に提供するものである。 如何なる近代の歐洲文學もまだ形を具ふるに至らざる前に、書かれたものであることを想へば、その後の幾世紀の星霜の間に日本の文語がどんなに少ししか變化して居ないか、誰れしも非常に驚く。 少しばかりの廢語と發音の樣樣な一寸とした變化とを差引けば、今日の尋常な日本讀書人は、英國の讀書人がエリザベス朝の詩人を硏究するに覺ゆると殆んど同じ位に、餘り困難を感ぜずにその自國の詩神(ミユウズ)のかういふ初期の作物を味ふことが出來るのである。 その上、萬葉集の作品の典雅と簡素の妙趣とは、役の日本歌人は終にこれを凌駕し得ず、しかもこれと竝馳することも減多に無かつたのである。 しばしば「イングランドの黄金期」と呼ばれる。 シェイクスピアはソネットなどにも大きな足跡を残した。 クリストファー・マーロウなどによっても多くの詩文が残され、英文学の大きな財産となっている』とある。 ] 自分が飜譯した四十幾つの短歌に就いて云へば、その主たる興味は、思ふに、その作者は人間性を我我に洩す處に在つて存する。 タナバタツメは今なほ頭が下る程に愛情の深い日本の人妻(ひとづま)を我我に代表して居り、ヒコボシは我我には神の光りは一向に放たず、支那の倫理的習慣がその拘束を生活竝びに文學に加ふるに至らない前の、六世紀若しくは七世紀の一年若い日本の夫(をつと)のやうに思はれる。 それからまた此等の歌は、彼等が自然美に對する早くからの感情を表白して居るので、我我には興味がある。 その歌に我等は日本の風景と、四季とが 高天の蒼野に移されて居るのを見る。 水が音を立てて淀みなく流れるさま。 木の釘の上で動くたつた一挺の櫂で推し進めるヒコボシの船はまだ廢れては居ない。 そして少女と人妻とは、氣持ちのいい秋の日には、タナバタツメがその戀人たる夫の爲めに機を織つた如くに、田舍村のその門口で今なほ坐つて機を織つて居るのである。 [やぶちゃん注:以下、一行空けで和歌紹介パートに入るので、ここでブレイクしておく。 ] [やぶちゃん注:本篇についての詳細はの私の冒頭注を参照されたい。 ] 自分はそれへたつた一つの神社の記錄を見出すことが出來た。 それは尾張の國星合村 原註三といふ村にあつて、七夕森といふ杜に圍まれて居る七夕神社といふのである。 原註三 ところが近代のどんな地名簿にもそんな村の記載がない。 [やぶちゃん注:尾張ではないが、現在の が現存し(グーグル・マップ・データ)、 によれば、『古くは伊勢国における七夕伝説発祥の神社とされ』、『三雲管内、新田開発以前の白砂青松の地で行われていた七夕祭は「伊勢星合祭」と呼ばれてい』たとし、『現在も「星合」「鵲」という地名が残り、神社の近くには「鵲橋」が存在し』、『主祭神は「天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)」』で、『古い文献には「多奈波太姫(たなばたひめ)」とあ』るとある。 小泉八雲が言っているのはこれの可能性がある。 ] が、然し天平勝寶前でも、織姬の傳說はよく知られて居たらしい。 といふのは養老八年(紀元七百二十三年)の七月七日の夜に、歌人の山上憶良が、 天漢(アマノカハ)相向立而(アヒムキタチテ)吾戀之(アガコヒシ)君來益奈利(キミキマスナリ)紐解設奈(ヒモトキマケナ) といふ歌を作つたといふことが、記錄されて居るからである。 [やぶちゃん注:以上は、「万葉集」巻第八の「山上臣憶良(やまのうへのおみおくら)の七夕の(なぬかのよ)の歌十二首」と前書する、その冒頭の一首である(一五一八番)。 整序すると、 天の川相向き立ちて我が戀ひし君來ますなり紐解き設(ま)けな で、歌の後に、 右は、養老八年七月七日に、令旨に應(こた)ふ。 とある。 「令旨」は皇太子の命令。 但し、講談社文庫の今西進氏の「万葉集」の注によれば、『養老八年は二月に神亀』に『改元』されているから、『六か七の誤り』とある。 ] 七夕祭は日本では千百五十年前に、支那の先例に從つて、ただ、宮中の祭りとして、初めて行はれたもののやうに察しられる。 其後貴族と武人階級とが帝室の手本を模し、俗に云ふホシマツリ卽ち『星祭』を行ふ習慣が漸次下に及び、終に七月の七日は、其言葉の十分の意味に於て、國民的祭日となつた。 が、その行ひ方は、時代によつてまた國を異にするに從つて、餘程違つて居つた。 [やぶちゃん注:によれば、『日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた』。 『「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の』一『書第』一『にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。 また、『萬葉集』卷』十『春雜歌』二〇八〇番の「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者將長」(たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ)『など』、『七夕に纏わる歌が存在する』。 『そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある』。 『日本では、雑令によって』七月七日が『節日と定められ、相撲御覧(相撲節会』(すまいのせちえ)『)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた』。 『その後、平城天皇が』七月七日に『亡くなると』、天長三(八二六)年、『相撲御覧が別の日に移され』、『行事は分化して』、『星合と乞巧奠が盛んになった』。 『乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん』『、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い』、七月七日の『夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。 古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。 この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。 宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を』四『脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉』一『枚に金銀の針をそれぞれ』七『本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。 一晩中香をたき』、『灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。 また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた』。 『二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。 江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。 なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない』とある。 ] 宮中での儀式は極はめて細細した念入りの者であつた。 七月の七日の宵に、宮居のうちの淸涼殿と呼ぶ建物の東の庭に莚を鋪き、その莚の上に星神に捧げる供物を載せる机四脚を立てる。 普通の食物の供物のほかに、その机の上に酒、香、花を活けた朱漆りの華盤、箏と笛、五色の絲を貫いた目の五つある針一本を載せる。 其饗宴を照す爲め、机の橫に黑漆りの燈臺をたてる。 庭の他の部分にタナバタの星の光りが映るやうに、水盥が置かれ、宮中の貴女達は、其水に映る星影で針に絲を通すことを試みた。 首尾よく通した者は翌年中幸運とされてゐた。 「公事根源抄」とも呼ぶ。 朝廷の年中行事を十二ヶ月に分けて、それぞれの由来を解説した書。 全一巻。 一条兼良撰。 室町時代の応永二九(一四二二)年成立。 現存しない行事や、これを通しての民俗信仰を窺うことが出来る好史料である。。 「華盤」「けばん」。 ] 宮廷に仕へる貴族(クゲ)はこの祭jの日に宮中へ或る供物をしなければならなかつた。 其供物の性質と、其奉呈の仕方とは敕令で極まつて居た。 かつぎを冠り、禮裝をした位階ある貴女が、盆に載せて宮中へ運び行くのであつた。 其貴女があゆみ行く時、その頭上に、六きな紅い傘を供人がさす。 盆の上にはタンザク(歌を書くに用ひる色の美しい紙の縱長い角な切れ)七枚、クズの葉七枚、硯七面、そうめん(一種のヷアミセリ)七すぢ、筆十四管、夜伐つて露が滋く置いて居る芋の葉一束が載せてあるのであつた。 先づ星神を讚へる歌を書くのに使ふ墨を用意するに先だつて、其硯を丁寧に洗つて、一年一面葛の葉の上に置く。 露が置いて居る芋の葉の一束をそれから一つ一つの硯の上に載せる。 水を用ひずに、この露で墨の水をつくるのである。 此式は凡て、玄宗皇帝の頃、支那の宮廷で流行つて居たものを模倣したもののやうである。 ヴェルミチェッリ(イタリア語:Vermicelli)。 イタリア料理で使われる麺類であるパスタの一つ。 名称は「ミミズやヒルのような長い虫」という意味の「ヴェルメ」(verme)の指小形で、「小さいヴェルメ」の意。 スパゲッティよりやや太めの二・〇八~二・一四ミリメートルのものを指す。 ] 德川將軍時代になつて、初めて七夕祭は、眞に國民的な祭日となつた。 そしてこの日を祝つて伐りたての竹へ、色變りのタンザクを結ひ付ける通俗の習慣は、漸く文政(千八百十八年)時代に剏まる[やぶちゃん注:「はじまる」。 前には短册は頗る上等な紙でつくつたもので、この古からの貴族的儀式は念入りであつたが、それに劣らずまた金のかかるものであつたのである。 が、德川將軍時代に種種な色の頗る廉價な紙が製造された。 それでこの祭日の式は費用をかけずに、どんなに貧しい階級の人達でも、思ふままこれを行ふことが出來るやうになつた。 このお祭りに關する民習は地方によつて異つた。 それを簡單に記述すれば、封建時代の幸福な生活の模樣が幾分か偲ばれよう。 七月の七日の夜、寅の刻には誰れも起きる。 そして硯と筆とを洗ふ。 それから家の中の庭で、芋の葉から露を集める。 此露をアマノガハノシヅク(『天の川の滴』)と呼んで居た。 庭へたてる竹に吊るす歌を書くのに使ふ新しい墨をつくるのに用ひるのである。 七夕祭の時に友人同士互に新しい硯を贈るのが常であつた。 そして家に新しい硯があれば、新しい墨をそれに使ふのであつた。 それから家中の者が銘銘歌を書く。 大人は、その能に應じて、星神を讚へる歌を作つた。 子供等は云うて貰ふ歌を書きとるか、又は間に合せの歌を作らうとしたりした。 それは六尺許り離して立てるので、その間へ渡した綱へ五色の紙片と、五色の染め絲の總絲を吊るす。 竹の葉と枝とへ、家中の者が歌を書いた短册を結ぴ付ける。 が、此祭りに關して一番妙な出雲の習慣は、ネムナガシ卯卽ち『眠流し』式であつた。 夜明け前に若い者は、ネムの葉と豆の葉とを交ぜて造つた束を携へて流れ川へ行く。 その川へ著くと、その葉束を流れへ投げ込んで、 ネムハナガレヨ! マメノハハトマレ! といふ短かい歌を唄ふのであつた。 その歌は二樣に解釋が出來よう。 が、その式は象徴的のもので、歌の心は、 ねむ氣よ、流れ去れよ! 元氣の葉よ、止りてあれ! といふのであつた。 それを濟ますと、若い者は皆その水の中へ飛び込んで、その翌年は怠惰は全く流し去つて、永く元氣な努力心を保たうといふその決心のしるしに、水を浴びたり泳いだりするのであつた。 が、然し七夕祭が其最も繪畫的な光景を示したのは多分エド(今の東京)でであつたらう。 百姓は其日は竹で大儲けが出來たもので、祭日用にと幾百といふ荷車で竹を町へ持ち込んだ。 江戶での此祭りの今一つの特色は、歌の結ひ付けてある竹を手に、町を持ち步く子供の行列であつた。 その竹一本一本にまた、七夕の星の名が漢字で書いてある赤塗りの札が結ひ付けてあつた。 この日は男の子も女の子も、一等いい著物を著て友人と鄰人とへ式の訪問をした。 七月はタナバタヅキ卽ち『七夕の月』と呼ばれてゐた。 この月はまたフミツキ卽ち『文の月』とも呼ばれてゐた。 それは七月の間は到る處で、天つ空なる戀人をたたへて歌を作つたからである。 [やぶちゃん注:底本では、行空けで次の段落が始まるが、のでここまでで、一区切りとして公開する。 来日後の第十二作品集)の冒頭に配されたものである。 本作品集は (目次ページを示した)で全篇視認でき( から)、活字化されたものは で全篇が読める(本書では、本編内の見開きなるページには左右上部の角に「小泉八雲」の丸い印影が黒で印刷されてあり、なかなかいい。 から)。 小泉八雲は、この前年の明治三七(一九〇四)年九月二十六日に心臓発作(狭心症)のため五十四歳で亡くなっており、この で完遂した「神國日本」(戸川明三訳。 底本は上記英文サイト にある画像データをPDFで落とし、視認した。 これは第一書房が昭和一二(一九三七)年一月に刊行した「家庭版小泉八雲全集」(全十二巻)の第八巻全篇である。 訳者大谷正信氏については、 の私の冒頭注を参照されたい。 傍点「ヽ」は太字に代えた。 原註は最後にポイント落ち字下げで纏められてあるが、適切と思われる本文の中に同ポイントで挿入した。 本篇は章立てがないが、かなり長い。 適切と私が判断した箇所で分割して示すこととした。 ] 天の河緣起 そのほか 古昔は云ひぬ、『天河は水の精なり』と。 我等は下界の川が時には爲すが如くに 一年のうちにその川床を移すを視るなり。 (古代の學者) [やぶちゃん注:この添え辞は底本では作品集標題「天の河緣起 そのほか」の次のページに配されて、あたかも標題「天の河緣起 そのほか」の添え辞であるかのように訳されてあるのであるが、これは とんでもない誤りで、 本来は作品集巻頭の一篇「天の河緣起」の題の脇に添えられるべきものであって、甚だ具合の悪いものである。 上に示した既に示した を見られたい。 なお、この出典は私は未詳。 ] 天の河緣起 舊日本が行うた幾多の面白いお祭今の中で、一番浪漫的なのはタナバタサマ、卽ち天の川の織姬のお祭りであつた。 大都會では此祭日は今あまり守らぬ。 束京では殆んど忘れられて居る。 然し、多くの田舍地方では、そしてこの首府近くの村でも、今なほ少しは行うて居る。 七月の(舊曆の)七日に、古風な田舍町若しくは村を偶〻訪れると、伐り立ての竹が幾本も家家の屋根の上に取り附けるか、又は橫の地面に樹てる[やぶちゃん注:「たてる」。 ]かしてあつて、その竹一本二本に色紙(いろがみ)の細片(ほそきれ)が澤山に著けてあるのに多分氣付くであらう。 極く貧しい村ではその紙片が臼いか、或はただ一色かであるを見るかも知れぬ。 が、一般の規則としては五通り、又は七通りの異つた色でなければならぬことになつて居る。 靑、綠、赤、黃それに白、これが普通飾る色合である。 その紙片には皆タナバタと、その夫ヒコボシとを讚へて作つた短かい歌が書いてある。 お祭りが濟むと、その竹は拔き取つて、歌をそれに著けたまま、一番近い流れへ投げ込む。 この古いお祭りの緣起を理解するには、七月の七日に、宮中でも、いつもそれに供物をされたこの星神の傳說を知らなければならぬ。 この傳說は支那のものである。 それを平易に日本譯にするとかうである。 仕事が好きで、機を織るより面白いことは他に無いと思つてゐた。 ところが或る日、その天の住家の門口で、機の前に坐つて居ると、牛を牽いて通る美くしい百姓を見て、それと戀に陷つた。 御父樣は、娘の心に祕めた願ひを察して、其若者を夫として與へた。 ところが一緖になつた戀人は餘りに好き合うて、天帝への二人の義務を怠り、梭[やぶちゃん注:「ひ」。 シャトル。 ]の昔はもはや聞えず、牛は世話の仕手が無いので天の河原をさまようた。 そこで大神は不興がられてその二人を別にされた。 二人はその後は、天の川を中にして、別別に暮すやうにと言ひ渡されたが、一年に一度、七月の七日の夜は互に會ふことを許された。 そしてその橋を渡つて二人の戀人は會ふ事が出來るのである。 然し雨が降ると 天の川の水嵩が增して、橋を架けることが出來ぬほど廣くなる。 だから、此夫婦は七月七日だつても、いつも會ふといふ譯には行かぬ。 天氣が惡るい爲めに、續いて三年も四年も會へぬこともある。 [やぶちゃん注:「失錯」(「しつしやく(しっしゃく)」或いは「しつさく(しっさく)」」)は「怠けたり忘れたりして為すべきことをやり損なう」こと。 西洋の著作家はタナバタ卽ち織姬は天琴座の一箇の星であり、その愛人たる牽牛は 乳色の道の向う側にある鷲座の一箇の星であると述べて居る。 然し兩方とも、極東人の想像には、一群の星によつて現されて居ると云ふ方が一層正しからう。 或る古い日本の書物はかう明白に書いて居る。 因みに実際の二星間の距離は十四・四二八光年もあることが科学的に判明している。 牽牛が織女に逢うには光速で走ったとしても十五年半もかかるのである。 以下の引用は底本では、全体が二字下げ。 ] ケンギウ〔牽牛〕は天の川の西にあり、一列に竝べる三つ星にして、牛を牽ける人の如くに見ゆ。 シヨクヂヨ【織女】は天の川の東にあり、機[やぶちゃん注:「はた」。 ]を織る女の姿に見ゆるやうに三つ星竝べり。 ……牽牛は農事にかかはる一切のことを司どり、織女は女の仕事にかかはる一切のことを司どる。 [やぶちゃん注:出典は私は未詳。 ] 雜話集といふ古い書物に、この二人の神はもと、この世界の人であつたと書いてある。 嘗て此世界に夫婦がいて、支那に住んで居た。 夫は斿子[やぶちゃん注:「いうし(ゆうし」。 「斿」の「游」の本字。 ]と言ひ、妻は伯陽と言つた。 二人は殊にまた最も熱心に月を崇め信じた。 晴れた日は每夕、日沒後、その昇るのを熱心に待つて居た。 それから地平線近く沈み出すと、その家の近くの小山の頂きへ登つて、少しでも長くその顏を眺めることにして居つた。 それから到頭、見えなくなつてしまふと、二人は共に歎き悲しんだ。 九十九歲で妻は死んだ。 そしてその魂が鵲[やぶちゃん注:「かささぎ」。 ]に乘つて天上して、其處で一つの星に成つた。 夫は、その時百三歲であつたが、月を眺めて妻を亡うた悲しみを忘れた。 その昇るのを喜んで迎へ、その沈むのを悲しむ時は、恰も妻がなほその橫に居るやうな氣がするのであつた。 夫はその訪れを非常に欣んだ。 だが、その時からして、星に成つて天の川の彼方で伯陽と一緖になれたら、どんなに幸福であらうと、そればかり考へて他のことは考へることが出來なかつた。 到頭、自分も亦、鳥に乘つて天界へ昇つて、其處で一つの星に成つた。 だが、望んで居たやうに、すぐには伯陽と一緖になれなかつた。 といふのは自分の割り當てられてゐる居場處と伯陽が割り當てられてゐる居場處の間に天の川が流れて居たからである。 それにどちらの星も、天帝がその川水で每日沐浴をされるので、その流れを渡ることを許されなかつた。 天帝はその日は、佛の法(のり)の說敎を聽きに、いつも善法堂へ行かれる。 そこでその時は鵲と鴉とが多勢出て、その空を飛んで居る軀と、擴げて居る翼とで天河の上ヘ橋を架ける。 そして伯陽はその擔を渡つて夫に會ぴに行く。 寛永一八(一六四一)年板行の作者・板元不詳の「雑話集」(上・中・下三巻)があるが、それか。 但し、これは私も知っているが、同書と思われる(同名異書の可能性もあるか。 現物を見られないので判らぬが)「雑談集」は「七夕由来譚」を載せてはいる。 しかし、それは小泉八雲が語るものとは異なる、羽衣伝説と七夕伝説がカップリングしたものである。 (PDF)の「七夕由来譚」によれば、『七夕に関連したさまざまな昔話や伝説も各地に伝えられている。 とくに、有名なのが、天の羽衣の話である。 これは天人女房譚の一種であり、七夕の由来譚がともなっている話もある。 たとえば、『雑話集』近江国余呉の湖に織女天降り水浴する。 男が衣を奪う。 織女』、『天に帰らず、その男の妻となる。 子供が生まれ、年ごろになる。 天に昇ろうとする志を捨てず』、織女は『常に泣く。 男の留守に、この子が父の隠しておいた天衣を出してやると、女は喜んでそれを着て天に昇る。 7月7日にこの湖に来て水浴する。 この日を待って』(「男は」であろう)『涙を流した、と記されています』というものである(但し、『この天人女房譚の昔話が、七夕と結びつけられたのは、後世の作為によるものと考えられている』とも述べておられる)。 さらに調べてみたところ、 木戸久二子氏の「『伊勢物語』第六十三段 : 古注に登場する牽牛と織女説話」という論文に( PDF でダウンロード可能)、慶応義塾大学図書館蔵「伊勢物語註」(冷泉家流古注)にこの話がバッチリ出現していることが判った。 同論文の翻刻に従つつ、漢字を正字化し、一部に私の推定読みを歴史的仮名遣で施したものを以下に示す。 前の漢文(返り点と熟語記号のみ附く)は同論文では全体が三字下げ、 後半の訓読文箇所は、恣意的に漢字を正字化し、私が送り仮名や本文のカタカナとなっているものを総てひらがなにし、訓読規則に従い(助詞・助動詞はひらがな書きとする)、さらに句読点・濁音や送り仮名を推定で大幅に補い、改行段落を成形して読み易く示した。 最後の「漢書傳……」(ここは訓読せず、論文のままで載せた)の部分は、論文中でも改行と二字下げが施されてある。 * 史記云瓊在 二夫-婦 一夫云 二遊子 一女云 二伯陽 一百三餘 陽首 一不ㇾ足契 二借〔偕〕-老 一者子二八之候陽三 四之旬愛 二玉兎 一而終-夜坐 二道路-之口 一暮徊 二遠 鄕 一曉登 二山-峯 一舉下而勿 二絕時 一陽沒之刻成 二 深-歎 一月前進得 二相-見 一依 二此執 一生ㇾ星再下 二 陰陽之國 一生 二道-祖半-立之二-神 一主 二男-女 会-合之媒 一 瓊(けい)國の名なり。 遊子・伯陽と云ふ人、夫、十六、妻、十二にて、夫妻となれり。 共に月を愛してすきし[やぶちゃん注:「好きし」或いは「数寄し」か。 ]程に、妻の伯陽、九十九にて死ぬ。 其の時、遊子、百三の年なるに、夫、歎きて云はく、 「汝、死せば、誰(たれ)とか月をも見るべき。 」 と云ふ。 陽、云はく、 「我、死すとも必ず月を見べし。 我、來つて月夜には必ず見るべし。 」 と契り、終(つひ)に死ぬ。 卽ち、葬送すれば、年比(としごろ)かゐける[やぶちゃん注:「飼ひける」。 ]鳥に乘りて、天を飛びて失せぬ。 或夜、なくなく月を見るに、此れに乘りて來(きた)れり。 形をば見れども、物、云ふ事、なし。 弥(いよい)よ、悲みをなす程に、夫の遊子が思ひ、切に成りて、白鵲(かさゝぎ)に乗りて、天に上(のぼ)りぬ。 我が妻を尋ねて行くに、天河(あまのがは)を隔てて、えわたらず。 況んや、婬事を犯す事、思ひも寄るべからず。 七月七日は帝釋の、善法堂へ入り、堂の隙(すき)なり。 さて、此の日相(につさう)と云へり、烏(からす)と鵲(かささぎ)と、羽をさしちがへて、二星、渡すとも見たり。 又、木の葉を口にくはへて、橋にわたすとも見えたり。 「紅葉の橋」ともよみたり。 又、云はく、『星、別れを悲みて血淚を流すが、鵲の白羽(しろば)を染(そ)むれば、「紅葉」と云ふ』とも見たり。 漢書傳云鳥-鵲橋 二口敷 二紅葉 一二-星屋-形前風冷 此の故に、織女を「つもゝ神」と云ふなり。 女を守る神なり。 牽牛を「つくい神」と名づく。 「女をあたふる神」とかけり。 「續伊神」なり。 * 「つくもがみ」は「付喪神」と同語源であろう。 但し、本来のそれは百年を経過した器物に宿って、化けたり人に害をなしたりするとされる精霊を指し、ここで言うようなものとは少し異なるが、女の命とされる髪(九十九髪)・櫛・鏡をそれに置き換えて考えれば、私は腑に落ちる。 「つくい神」の方は判らぬ。 「つくも」を女とした原語を語尾で変えたありがちな男性形に過ぎないかとも思われる。 ともかくも、 小泉八雲が語っているのは、まさにここに記されたものとそっくりである。 「雜話集」なるものに載るのは、これと同源であることは疑いようがない。 但し、冒頭の漢文の「史記」に載るというのは、私の探し方が悪いのか、見当たらない。 原文位置を御存じの方はお教え願いたい。 「鵲」スズメ目カラス科カササギ属カササギ亜種カササギ Pica pica sericea。 博物誌は を参照されたい。 ] タナバタといふ日本の祝祭は、元は支那の機織[やぶちゃん注:「はたおり」。 ]の女神織女(チニウ)の祝祭と同一であつたといふことは、殆んど疑ひを挾み得ない。 また、この日本の祭日は、極くの昔からして、殊に女の祭日であつたものらしく思はれる。 そしてタナバタといふ語を書き現す文字は、機を織る少女といふ意味のものである。 然し、この星神の二人を、七月の七日に拜んだものであつたから、日本の學者のうちには、そのもの普通の解釋に滿足せずして、元はこれはタネ(種)といふ語とハタ(機)といふ語から出來て居たと說いたものがある。 その語源說を受け入れる人達は、タナバタサマといふ名稱を單數とせずに複數にして、これを『種の神樣と機の神樣』卽ち農耕を司どる神と機織を司どる神とする。 兩人の服裝は支那風である。 そしてこの二神の最初の日本畫は、多分、支那の何かの原書を模寫したものであらう。 [やぶちゃん注:七夕の行事自体は言うまでもなく、中国から伝来し、奈良時代に広まった。 その基本は無論、「牽牛星」と「織女星」の伝説であるが、中国には別に、手芸・芸能の上達を祈願する習俗として「乞巧奠(きっこうでん)」があってこれが結びつけられて、本邦固有の行事となったとされる。 「七夕」の「たなばた」という当て訓は恐らく「棚機(たなばた)つ女(め)」(「つ」は古い格助詞で「の」の意)の下略されたものとされる。 但し、ここで小泉八雲が述べているように、古くから農村では、豊作を祈って種を撒くという「種播祭(たなばたまつ)り」があったことから、宮中で行われていた中国由来の「七夕(しちせき)」が、民間に広まった際にそれと混同されて、「たなばた」と呼ばれるようになったとも言われる。 農耕予祝行事と別個な中国の外来習慣が習合するのはごくごく普通に見られる現象である。 現代中国音では「織女」は「ヂィーヌゥー」。 出雲では男神の方をヲタナバタサマ、女神の方をメタナバタサマと通常呼んで居る。 兩方共なほ多くの名で知られて居る。 男の方はヒコボシと言つたり、ケンギウと言つたりするが、またたカイボシとも呼ぶ。 そして女の方はアサガホヒメ『朝貌姬』) 原註一、イトオリヒメ(『絲織姬』)、モモコヒメ『一挑子姬』)、タキモノヒメ(『薰物姬』)またササガニヒメ(『蜘蛛姬』)と呼ぶ。 が、古い支那の書物に、一縷の關係がりはせぬかと思はせるやうな、妙な事實が記載されてゐる。 支那皇帝ミン・ヒソン(日本人はゲンソウと呼ぶ)の御世には、宮中の淑女達は、七月の七日に蜘蛛を捕へて占ひのため、これを香箱に入れ置くが習はしであつた。 八日の朝その箱を開く。 若し其蜘蛛が夜の中に厚い網を紡いだならば占ひは吉であつた。 が、若し何もせずに居たのであつたら占ひは凶であつた。 原註一 アサガホ、文字通りでは「朝の貌」。 英語で「モオーング・グロオリ」と呼ぶ美しい攀登植物の日本名。 [やぶちゃん注:この最後の占いは漢籍の中で確かに読んだことがあるように記憶する。 思い出せない。 思い出したら追記する。 「萬葉集」には百三十首以上もの七夕関連の歌が載る。 の「七夕を詠む(一):万葉集を読む」(次へで同(二)が続く)がよい。 「ササガニヒメ」「ササガニ」は「細蟹」「笹蟹」で、蜘蛛の古名である。 小泉八雲は説明が困難だと言っているが、私は織女星ベガが「こと座」の平行四辺形の属星に延ばして捉えるとそれが蜘蛛の巣のように見えるからではないかと秘かに思っている。 織り姫だから、蜘蛛の糸とも縁語関係にあるのでそれだけでも構わぬと思う。 ともかくも、「アラクネ」(ギリシア神話中の女性。 小アジアのリュディアのコロフォンに住んでいたイドモンの娘で、機織りの名手であったが、慢心して女神アテナに腕比べを挑み、女神の面前で神々が人間の女たちと愛欲に耽る情景を美事に織り上げて見せてしまい、怒ったアテナは彼女を、手に持った火で打ち据え、アラクネは首を吊って自殺したが、憐れを催したアテナは、彼女をギリシア語で「アラクネ」と呼ばれる蜘蛛に変えてやったという話)との直接連関を求める必要は、私はない、と考えている。 ] 數年前、美くしい女が一人、出雲の山の中の或る農夫の住家を訪れて、その家の獨り娘に、人の知らぬ機織の技を敎へた話がある。 或る晚その美くしい他國人は、姿を消した。 それで其處の人達は、今まで居たのは天(そら)の織姬樣であつたと知つた。 その農夫の娘は、機織が上手だといふので評判者になつた。 その男は每年、八月中、責重な木材の浮槎[やぶちゃん注:「ふさ」。 普通、「槎」は人工的な筏をさすことが多いが、ここは非常に高級な材質の流木でよかろう。 ]がその住つて居る海岸へ漂うて來るのを觀て、何處にその木が生えるのか知りたいと思つた。 そこで二箇年の航海に要する食料を一艘の船に積んで、その浮槎がいつも流れ來る方向に船を走らせた。 幾月も幾月も、いつも平穩な海を進んで行つて、到頭、不思議な樹木の生えて居る氣持ちのいい海岸へ到著した。 船を繋いで單身その知らぬ陸へと進んで行くと、やがてその水が銀のやうに光つて居る川の岸へ來た。 向う岸に亭が一つあつた。 そして其亭に美くしい女が一人機を織つて居つた。 其女は月光のやうに白くて、あたりに光りを放つて居つた。 やがてのこと眉目美はしい若い百姓が、川の方へ牛を牽いて近寄つて來るのが見えた。 そこでかの男はその若い百娃に、この處と此國との名を聞かせて吳れと賴んだ。 ところがその若人はその問ひを不快に感じたらしく、激しい語調で、『此處の名が知りたいなら、汝(おまへ)が來た處へ歸つて嚴君平(げんくんぺい) 原註二に聞け』と答へた。 そこでこの航海者は、恐ろしくなつて、急いで自分の船に乘つて支那へ歸つた。 歸つてからその嚴君平といふ賢者を探し尋ねて、その冒險を物語つた。 嚴君平は驚いて手を拍つて叫んだ。 『それでは汝(おまへ)だつたのか!……七月の七日に自分はじつと空を見て居ると、牽牛と織女とが出會はうとして居るのが見えた。 仕合せ者だなあ! 汝は天の川へ行つて、織女の顏を見たのだ!……』 原註二 これはその支那名を日本風に讀んだもの。 [やぶちゃん注:以上は晋の西張華(二三二年~三〇〇年:文人政治家。 方城県(河北省)の人。 魏の初めに太常(たいじょう)博士となり、西晋に仕えて呉の討伐に功あり、官は司空に至って壮武郡公に封ぜられたが、「趙王司馬倫の乱」により、一族とともに殺された詩文の才に恵まれ、男女の愛情を歌った華麗な「情詩」五首、「雑詩」三首は特に知られる。 若い頃から、占卜・術数・方士の術などにも精通し、天下の異聞・神仙・古代逸話などを集めて「博物志」全十巻を著した。 但し、現存するものは彼の原著かどうかは疑わしい)「博物志」の巻十の「雑説 下」に載る。 * 舊說云、天河與海通。 近世有人居海濱者、年年八月有浮槎去來不失期。 人有奇志、立飛閣於槎上、多齎糧、乘槎而去。 十餘日中、猶觀星月日辰、自後芒芒忽忽、亦不覺晝夜。 去十餘日、奄至一處、有城郭狀、屋舍甚嚴、遙望宮中多織婦。 見一丈夫牽牛渚次飮之、牽牛人乃驚問曰、「何由至此。 此人具說來意、幷問此是何處。 答曰、「君還至蜀郡、訪嚴君平則知之。 竟不上岸、因還。 如期後至蜀、問君平、曰、「某年月日有客星犯牽牛宿、計年月、正是此人到天河時也。 * 「嚴君平」「漢書」に登場し、成都の市場で占いを生業(なりわい)としていたが、「卜筮(ぼくぜい)は賤しい業ではあるが、人々の役に立つ」と考えて、その商売にことよせて、人の道を説いたという、と平凡社「世界大百科事典」の「占い」に記されている。 著書に「老子指帰」があったが、散逸して残らない。 「客星」(きゃくせい)は、現われたり、消えたりする星のこと。 現代の天文学では新星の現象とされる。 ] 牽牛と織女とが會ふのは、眼のいい人にはどんな人にでも觀られるといふ。 會ふ時はいつも、その二つの星が五通の異つた色で燃えるからである。 タナバタの神へ五色の供物をし、それを賞め讚へての歌を五通り異つた色合の紙に書くのはその爲めである。 が、前にも言つたやうに、二人はいい天氣の時だけ會へるのである。 七日の夜、少しでも雨が降れば、天の川の水嵩が增すので、この戀人はまた全(まる)一年待たなければならぬ。 だから、七夕の夜降る雨をナミダノアメ卽ち『淚の雨』と呼ぶ。 空が七日の夜晴れて居ると、この戀人は幸福である。 その星は嬉しさにピカピカ光つて居るのが見られる。 その時、牽牛星が非常に光つて輝くと、その秋、米の收穫が多い。 織女星がいつもよりも光つて見えると、機織りやあらゆる女の手業の繁昌する時が來る。 舊日本ではこの二人が會ふのは、人間に取つて幸運だと一般に想はれて居た。 伊賀では若い者共が、この戀人二人が會ふ時刻だと思ふ時分に、 七夕や餘り急がば轉ぶべし といふ巫山戲た[やぶちゃん注:「ふざけた」。 ]歌をまた唄ふ。 [やぶちゃん注:これは実際には俚謡ではなく、伊賀上野の人で、芭蕉が若き日に勤仕したこともある藤堂藩藩士であった蕉門の土田杜若(つちだとじゃく ?~享保一四(一七二九)年:名は正祇、通称は小左衛門。 初号は柞良)「猿蓑」の巻之三に(これが彼の初出)、 七夕やあまりいそがばころぶべし 伊賀小年杜若 とある。 因みにこの句は、「古今和歌集」の「卷第十九 雜躰」に藤原兼輔(曾祖父)の一首(一〇一四番)、 七月六日、七夕の心をよみける いつしかとまたぐ心を脛(はぎ)にあげて あまのかはらをけふやわたらむ に基づく戯れ句ではある。 ] 然し出雲の國では、此處は雨のよく降る地方だが、これと反對な信仰が行はれていて、七月の七日に空が晴れると、その後に不幸が起こると考へられて居る。 この信仰の地方的說明は、かの二つの星が出會ふとその合體からして、旱魃や他の禍ひで國を惱ます惡神が多く生れるといふのである。 七夕祭を初めて日本で行つたのは天平勝寶七年(紀元七百五十五年)の七月七日であつた。 恐らく七夕の神の起源は支那に在るといふことが、これを公に崇めるといふことを多くの神社で、いつの世にもしなかつたといふ事實を說明する。 [やぶちゃん注: 底本では、行空けもなしに次の段落が始まるが、 のでここまでで、一区切りとして公開する。 ] 小泉八雲 蟲の硏究 蟻 四・五・六・七 (大谷正信訳) / 蟲の硏究 蟻~了 / 作品集「怪談」~了 [やぶちゃん注:本篇についての詳細は の私の冒頭注を参照されたい。 ] 四 さて、もつと不思議な事實がある。 この間斷無き勞苦の世界は、 處女世界以上の世界である。 尤も時に、雄が其世界に見出されはするけれども、それは特別な時機にだけ現れ、又、勞働者或は勞働と、全然何等の交涉を有つて居らぬのである。 また勞働者の方で雄に話をしようなどと思ふものは一匹も居らぬ。 といふのは、雄は此不思議な世界では、鬪ふことも働くことも等しく出來ない劣等な物で、單に必要な厄介者として、我慢して置いて貰つて居る物だから。 だが、母體に選拔されたものは働かぬ。 そしてそれは夫(をつと)を 受納せざるを得ぬのである。 尤も、勞働者のうちには、單性生殖をすることが出來て、父無し子を生むことが出來る者が居る。 だが、一般の規則として、勞働者はその道德的本能だけが眞に女性である。 非常な慈悲心と忍耐力と、我我が呼んで『母性的』と云ふ先見とを有つて居るのである。 その性は、佛敎の傳說に見る龍女同樣、無くなつて居るのである。 ] 肉食動物卽ち国家の敵を防ぐが爲めに、勞働者は武器を具へて居る。 そしてその上また强大な武力に保護せられて居る。 その軍人は、始め一寸見た時には同一種族のものとは信ぜられぬほどに(少くとも或る社會では)勞働者よりは遙か身體が大きい。 それが守護して居る勞働者よりも百倍も大きな軍人は珍らしく無い。 みな頑强に仕事をやつて行くことは出來る。 が、主として戰鬪をするやう、重い物が曳けるやうにと出來上つて居るからして、その用は塾練よりも、力の要求せられる方面に限られて居る。 [やぶちゃん注:最後の段落は所謂、「兵隊アリ」の記載であるが、総てのアリに兵隊アリが居るわけではなく、兵隊アリと呼ばれても、働きアリと区別できない形態のもの、寧ろ働きアリよりも臆病な印象を受けるもの、担当業務が「兵隊」でないもの等、多種多様である。 によれば(改行を省略した)、『アリの種類によっては、同じ働きアリでも、大きさや形が違う個体が現れることがあります。 特にオオズアリ』(大頭蟻。 膜翅(ハチ)目細腰(ハチ)亜目スズメバチ上科アリ科フタフシアリ亜科オオズアリ属オオズアリ Pheidole noda)『やオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属 Camponotus)『には、頭部も体も大きな兵隊アリが現れる種類があります。 兵隊アリと名前だけ聞くと、敵と戦うためのアリといったイメージがありますが、オオズアリの場合は、兵隊アリは働きアリよりも臆病な感じがします。 実は兵隊アリの本当の役割は、働きアリが集めてきた大きなエサを解体したり、運んだりするなどの力仕事が専門なのです。 中にはコツノアリ』(フタフシアリ亜科カレバラアリ属 Carebara yamatonis)『のように、兵隊アリは一切外へは出ずに、巣に運ばれてきたエサを、そ嚢に貯蔵するだけのアリもいるのです。 このように兵隊アリが現れるアリであっても、兵隊アリが現れるのはコロニーが数十から百匹を超えないと現れることはありません。 これは、働きアリが幼虫に与える量を制限しているためだと言われています。 コロニーの数が少ない時期は、外敵に襲われやすく、最も危険な時期なのです。 このような大変な時期に、成長するのに多くのエサと時間が必要な兵隊アリを育てている余裕などないため、幼虫に与えるエサを少なくして、体の小さな働きアリをたくさん増やす事に専念するのです。 そして、コロニーの数が多くなり、安定してエサが集まるようになると、体の大きな兵隊アリを育て始めるのです。 クロオオアリ』(ヤマアリ亜科オオアリ属オオアリ亜属クロオオアリ Camponotus japonicus)『を飼育した場合、働きアリが100匹以上になったころから兵隊アリが現れます。 また、大きなコロニーであっても兵隊アリの割合は決まっていて、種類にもよりますが、全体の5~10%ほどが兵隊アリになるようです。 生まれた卵が、働きアリか兵隊アリのどちらになるのかは、子育てをする働きアリによって決められてしまうのです。 そして、コロニーがさらに成長して、ようやく新女王が育てられるのです』とある。 ] 〔何が故に、雄で無くて、雌が進化の上に於て軍人及び勞働者に分化したのだらうかといふことは、思ふほど簡單な問題では無いかも知れぬ。 これに答へることは確かに自分は出來ない。 だが、自然的經濟が此事件を決定したのかも知れぬ。 多くの生物體を見るに、雌の方が圖體に於ても精力に於ても、大いに雄に優つて居る。 思ふに、此蟻の場合に於て、完全な雌が元もと所有して居た生活力の より大なる貯藏が、或る特殊の戰鬪階級を發達進化せしむるのに、より迅速に且つ有利に利用され得るからであらう。 そしてそれ等は女王のやうな待遇を受けて居る。 彼等は何んの願望も滅多に云ひ出し得ない程までに絕え間無しに且つ恭しくかしづかれて居る。 日も夜もあらんかぎりの世話を受けて居る。 彼等だけがあり餘る程に美の供給を受ける。 後裔の爲めに彼等は全く王樣のやうに飮食し、また休息せねばならぬのである。 そしてその生理的分化は、それに心任せに耽り得られるやうにして居る。 滅多に外出をしない。 有力な護衞が隨行しなければ決して外出しない。 不必要な疲勞や危險を招くことを許容されぬからである。 多分、外出したい希望も大して無からう。 彼等の周圍には種族全體の大活動が目まぐるしい程行はれて居る。 そしてその慧智も勞苦も儉約も悉く皆、この母とその子供の安寧に向けられて居るのである。 前に道べた通り、或る特別な季節だけに現れ、且つ其生涯は甚だ短かい。 或るものは、高貴な方に結婚する運命を有つては居るが、尊い家に生れた身だと誇ることさへ出來ない。

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