ウィト ゲン シュタイン 名言。 ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツとは (ウィリバルトヨアヒムフォンメルカッツとは) [単語記事]

ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツとは (ウィリバルトヨアヒムフォンメルカッツとは) [単語記事]

ウィト ゲン シュタイン 名言

「ウィトゲンシュタイン」とはどんな人物? ウィトゲンシュタインは分析哲学の第一人者 ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)は、オーストリアのウィーン出身の哲学者です。 20世紀の分析哲学の発展に大きな影響を与え、分析哲学の第一人者とされます。 その研究は大きく前期と後期にわけられ、前期における著作が『論理哲学論考』(『論考』とも呼ばれる)となり、それを自己批判して新たな思索が展開された後期における著作が『哲学探究』(『探求』とも呼ばれる)です。 『論理哲学論考』『哲学探究』とも20世紀を代表する哲学書として評価されています。 ウィトゲンシュタインの表記に注意 ウィトゲンシュタインのフルネームは「ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨハン・ヴィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein)」です。 「Wi」のドイツ語の発音はウィではなくヴィであるため、「ヴィトゲンシュタイン」とするのが近い発音になりますが、日本では「ウィトゲンシュタイン」と表記されることが多いことから、この記事ではそれに倣って表記しています。 「ウィトゲンシュタイン」の思想とは ウィトゲンシュタインの哲学の方法は「言語批判」 ウィトゲンシュタインは前期、後期ともに哲学の方法として「言語批判」を貫いています。 ふだん使っている言語が哲学における問題の原因であり、言語の罠にかかって多くの難問が哲学の長い歴史において議論されてきたとする批判の立場に立ち、言語について批判的に考察しました。 『論理哲学論考』において「言語の限界」を設定した ウィトゲンシュタインは、これまでの哲学は神や魂といった解けない問題をもてあそんでいたにすぎないとして、哲学の解くべき問題と解き方を明確にするために、言葉の本質と限界を解明しようと考えました。 『論理哲学論考』の序文で本書の意義として、「およそ語りうることについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない」と述べています。 そしてそれゆえに、思考されたものの表現に限界を引かなければならず、限界を引くためには限界の両側を思考しなければならないとしました。 ウィトゲンシュタインは言語の記述の限界を考察した結果、言葉で世界は完全に記述されること、さらに哲学の諸問題は最終的に解決されたと宣言しました。 『論考』が刊行されると、ウィトゲンシュタインは哲学と決別し、小学校の教員となりました。 『哲学探究』において「言語ゲーム」論を提示した 哲学から決別したウィトゲンシュタインでしたが、1928年にウィーンで開催された数学者の講演を聴講した際に、哲学においてやり残したことがあることに気づき、再び哲学と取り組むこととなり、それから16年後に『哲学探究』を刊行しました。 『論考』で示した、結晶のように純粋な論理は間違いだったとして、理想的な論理ではなく地に足をつけて実際に営まれる言語活動のことを「言語ゲーム」という概念で表しました。 ウィトゲンシュタインが提示した「言語ゲーム」とは 「言語ゲーム」とは、人間の生活におけるさまざまな言語現象のことを表し、言語以外の、言語がかかわる活動も含んで言語ゲームと呼びます。 具体的には、言葉を発するときの表情や動作、感覚、他者とのかかわりや名前をつけること、それらすべてが言語ゲームであるといいます。 さらに、言語活動は理性による思考の結果ではなく、歩いたり、笑ったりする人間の活動と同じ種類の一つの活動に過ぎず、とくに優れた活動であるわけではないとして、言語とは、ただの言語によるゲームなのだとしました。 人は生きるうえで慣習を持ちますが、慣習を語ることなく言語ゲームを繰り広げます。 人は自分が生きているそのことを語ることはできず、言語ゲームとは、語られることのない、生活様式の中に基盤を持つものだと説明されます。 ウィトゲンシュタインは、生涯めぐらした考察において、「語りえぬもの」を語り続けたといえます。 「ウィトゲンシュタイン」の著書 『論理哲学論考』1921年 『論理哲学論考』は、ウィトゲンシュタインの生前に刊行された唯一の著作です。 『論理哲学論考』の目的は、言語と思考の限界を思考し、哲学問題に終止符を打とうとするものです。 『論考』では基本となる7つの命題があり、それぞれの番号が振られた短い断章が積み重なるように構成されています。 1.「世界は成立していることがらの総体である」という命題から始まり、最後の命題は先に紹介した7.「語りえぬものについては、沈黙するしかない」です。 1.に対する注釈として、1. 1「世界は事実の総体である。 事物の総体ではない」が掲げられるという、近代論理学の形式に基づいて思想が展開されます。 本書では論理学に厳密に基づいて言語の世界像を構築し、哲学の不備を指摘したことから、当時の哲学界に衝撃を与えました。 『哲学探究』1953年 後期の著作である『哲学探究』は、ウィトゲンシュタインの死後2年が経過してから出版されました。 本書は、『論理哲学論考』において、哲学のすべての問題は解決したと宣言したことを考え直し、哲学に復帰してから16年の長きにおける思索の成果をまとめたものです。 後期における哲学は、日常に使われる言語の働きの理解へと方向を大きく転換しました。 本書では、世界は言語の実践であるところの言語ゲームのもとで現象しているという言語論を展開しています。 本書の序文には、この書物は一連の思索におけるスケッチを整理し、一枚の風景画に見えるようにアルバムにした、と書かれているように、膨大な断章が章の番号順に並べられて構成され、研究者には未発掘の鉱脈とも喩えられます。 「ウィトゲンシュタイン」の名言 「語ることができないことについては、沈黙するしかない」 『論考』の最後の言葉は、ウィトゲンシュタインの名言として有名な「語ることができないことについては、沈黙するしかない」です。 「本書に表された思想が真理であることは決定的であり、それゆえ問題はその本質において最終的に解決された」と述べていますが、ウィトゲンシュタインが解決したとしたこととは、「語りえないこと」の証明であったといえます。 「考えるな、見よ」 『探求』において、言語の本質的な意味を考えるな、言語の使用の類似性や関連を見よ、という意味で書かれた言葉「考えるな、見よ」が有名です。 言語ゲームの概念を説明した言葉です。 「ウィトゲンシュタイン入門」の本を紹介 ウィトゲンシュタインの哲学は難解で、読み解くのには相当の時間がかかると多くの研究者が述べています。 この記事ではウィトゲンシュタインの思想の概要のみを紹介しましたが、興味を持たれた方は解説書とともに本文を読み進めてみることをおすすめします。

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ウィト ゲン シュタイン 名言

生誕 ・ 死没 (満62歳没) ・ 時代 20世紀の哲学 地域 学派 、、 研究分野 、、、、、 主な概念 言語の写像理論()、、事態()、論理的真実・論理的必然性(、Logical necessity)、意味の使用説(Meaning is use)、、、、規則遵守(Rule following)、、ウィトゲンシュタインの信仰主義(Wittgensteinian fideism)、、ウィトゲンシュタインの数学の哲学()、(Ordinary language philosophy)、理想言語分析(Ideal language analysis)、意味の懐疑論(Meaning scepticism)、記憶の懐疑論(Memory scepticism)、意味論的外在主義(Semantic externalism)、など 目次• 概要 [ ] ・ののもとで哲学を学ぶが 、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『』に哲学の完成をみて哲学の世界から距離を置く。 その後、オーストリアに戻り小学校教師となるが、生徒を虐待したとされて辞職。 トリニティ・カレッジに復学してふたたび哲学の世界に身を置くこととなる。 やがて、ケンブリッジ大学の教授にむかえられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらしてみずからの哲学の再構築に挑むが、結局、これは完成することはなく、癌によりこの世を去る。 62歳。 生涯独身であった。 なお、こうした再構築の試みをうかがわせる文献として、遺稿となった『』がよく挙げられる。 そのため、ウィトゲンシュタインの哲学は、初期と後期が分けられ、異なる視点から考察されることも多い。 名前の表記 [ ] ウィトゲンシュタインの「 Wi」という部分は標準ドイツ語およびでは「ウィ」ではなく「ヴィ」と発音される。 しかし、慣用的に用いられる表記にしたがって、本項では概要および以下の記述において、ルートヴィヒ本人に限り便宜上、「 ウィトゲンシュタイン」に統一する。 生涯 [ ] 幼少時代 [ ] にの首都で生まれた。 ウィトゲンシュタインは4歳になるまで言葉を話すことができず、その後も重度の吃音症を抱えていた。 そのため両親は家庭教育に専念することに決め、彼を小学校に通わせなかった。 祖父 ()は、でを受けからに改宗したのち、からへと転居した商人であり、その息子(ルートヴィヒの父)はこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた。 ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はだったが、彼女の実家のカルムス家もユダヤ系であった。 ルートヴィヒ自身はカトリック信仰を実践したとはいえないものの、カトリック教会でを受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。 によるルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像(1905年) ルートヴィヒは8人兄弟の末っ子(兄が4人、姉が3人)として刺激に満ちた家庭環境で育った。 ヴィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており 、そのなかには、、などがいる。 もヴィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている。 ヴィトゲンシュタイン家の交友関係のなかでも、とりわけとの深い関わりは特筆にあたいする。 ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのがおり、彼はヘルマンの紹介での教えを受けていた。 母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、や、らと親交を結んだ。 叔母のアンナは(の師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。 ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面でなんらかの才能を持っていた。 ルートヴィヒの兄は有名なピアニストになり、で右腕を失ったのちも活躍を続け、や、らが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している。 ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能はなかったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった。 哲学的著作のなかでもしばしば音楽の例やをもちいている。 一方、家族から引き継いだ負の遺産としてはやの傾向がある。 4人の兄のうちパウルを除く3人がしており、ルートヴィヒ自身もつねに自殺への衝動と戦っていた。 学生時代 [ ] ウィトゲンシュタインは、まで自宅で教育を受けている。 その後、技術面の教育に重点を置いたの高等(レアルシューレ)で3年間の教育を受けた。 このとき、同じ学校の生徒にはがいた。 ウィトゲンシュタインは、この学校に在学している間に信仰を喪失したと後に語っている。 宗教への懐疑に悩むウィトゲンシュタインに対して、姉のマルガレーテは、の『』を読んでみるよう薦める。 ウィトゲンシュタインが哲学の道へ進む以前に精読した哲学書は、この一冊だけである。 また、ウィトゲンシュタインは、ショーペンハウエルに若干の付加や明確化を施せば、基本的には正しいと思っていたと後に語っている。 大学生時代のウィトゲンシュタイン() 同じ頃、の講演集を読んで、ボルツマンのいるへの進学を希望するが、ボルツマンの自殺により叶わなかった。 そこで、に興味を持っていたウィトゲンシュタインは、高等実科学校を卒業したから、ベルリンのシャルロッテンブルク工科大学(現)でを学び、の卒業後にはで行われていた上層におけるの挙動についての研究に参加した。 その後、工学のを取得するために、工学部へ入学した。 そこで、彼は、ブレード端に備えた小型の推力によって回転するの設計に携わり、には特許権を認定された。 この期間に機械工学と不可分である数学への関心から、の『』などを読んでに興味を持つようになり、その後、現代のの祖といわれるのもとで短期間学んだ。 秋、ウィトゲンシュタインは、フレーゲの勧めでので教鞭を取るラッセルを訪ねた。 哲学について専門の教育をまったく受けていなかったウィトゲンシュタインと少し話しただけで、ラッセルは即座にウィトゲンシュタインの類い稀な才能を見抜いた。 なお、ラッセルは、ウィトゲンシュタインと最初にあったときの印象について、次のように書いている。 — An unknown German appeared … obstinate and perverse, but I think not stupid. 翌にトリニティ・カレッジに入学を認められ、ラッセルやのもとで論理の基礎に関する研究を始めた。 また、を確立したと知り合ったのもこの頃である。 ケインズは、ウィトゲンシュタインに対して、友情と尊敬の念を終生にわたって抱きつづけた。 、父の最期を看取るためにウィーンへ戻る。 父の死によってウィトゲンシュタインは莫大な資産を相続したが、彼はその一部を匿名でオーストリアの芸術家に寄付した。 ウィトゲンシュタインは、それまでケンブリッジで成功裡に研究を進めていたが、多くの学者に囲まれた中では、最も根元的な問題に到達できないという感覚を抱くようになっていた。 そのため、彼は、この年イギリスを離れたままほとんどケンブリッジへは戻らず、の山小屋に隠遁し、が始まるまでの全生活を研究に捧げた。 時々ケンブリッジへ行くこともあったものの、書いた原稿をラッセルに渡すだけで、ノルウェーへとんぼ返りするのが常だった。 彼は、この頃に執筆した論理学に関する論文で学位を取得することを考え、ムーアを通して大学当局へ打診したことがある。 しかし、規定によると、学位論文にはきちんと註が付いていなければならない(どこまでがので、どこからがオリジナルな研究かを示すため)。 そのため、ウィトゲンシュタインの論文は規定を満たさないので通過しないとの返事がムーアから寄せられた。 ウィトゲンシュタインは「どうしてそんなくだらない規定があるのか」「地獄へ落ちたほうがマシだ」「さもなければあなたが地獄へ落ちろ」とムーアを罵倒した。 この一件でウィトゲンシュタインは友人と学位を一挙に失い、取り戻すのは実に15年後のこととなる。 ともあれこの時期が生涯で最も情熱的で生産的な時期だったと彼はのちに回顧している。 前期ウィトゲンシュタインの主著で哲学界に激震をもたらした『』の元になるアイディアはこのときに書かれた。 第一次世界大戦 [ ] 、が勃発し、にウィトゲンシュタインは軍の志願兵になっている。 へ着任し巡視船ゴプラナ号内で過ごすことになるが、隊内では孤独にさいなまれ、さらに兄パウルが重傷を負ってピアニスト生命を絶たれたと聞き「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考える。 そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。 それはによるの解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。 誰彼かまわずこの本を読んでみるよう薦め、戦友から「福音書の男」というあだ名までつけられるほど熱中したという。 このころから彼は哲学的・宗教的な内省をノートに頻繁に書き留めている。 これらのメモのうち最も注目に値するのはのちに『論考』で全面的に展開される 写像理論のアイディアであろう。 これは後年の述懐によると、の中で読んだ雑誌の交通事故についての記事中の、事故についての様々な図式解説からヒントを得たものだという。 11月にはかつて財政支援をしたが鬱病で入院しウィトゲンシュタインに会いたがっているとの知らせを受け取る。 自身も孤独と憂鬱に悩まされていたこともあり、あの天才詩人と親しく話せる仲になれればなんと幸せなことかと喜び勇んで病院へ見舞いに向かったが、到着したのはトラークルがの過剰摂取により自殺した3日後のことであった。 またの選集も買い求めて『アンチ・キリスト』などのある部分には共感を覚えながらも信仰の念をかえって強める。 に入ると、工廠の仕事に回されたため哲学的思索に耽る時間がなくなり自殺願望が再発するが、友人の手紙に励まされて再び執筆を始め、多くの草稿を残す。 『論考』の第一稿もこのころには完成していたことがラッセル宛の書簡で知られているが現存していない。 3月、対戦の最前線にの一員として配属される。 ロシア軍の猛攻撃のさいには避難命令を斥けてまで戦い抜いた功績で勲章を受け、へ昇進した。 後半にはの影響で戦況が比較的平穏になり、ウィーンで休暇を取って過ごすこともできた。 には少尉に昇進、やがて(、、)軍と対峙する戦線の山岳砲兵部隊へ配属となる。 ここでも偵察兵としてきわめて優秀な働きにより二度目の受勲をした。 しかしオーストリア軍全体の劣勢は明らかであり、退却を余儀なくされたのち再び休暇が与えられる。 この休暇中にはウィーンへ戻らず、の叔父の家でついに『論考』を脱稿する )。 さっそく敬愛する批評家の著書を刊行していた出版社へ原稿を送るが、出版は拒否されてしまう。 やむをえずウィトゲンシュタインはすでに崩壊しつつあるイタリアの前線へ戻るが、のオーストリア降伏の直前にイタリア軍の捕虜となり、はじめは、のちにの捕虜収容所へ送られることとなった。 、ウィトゲンシュタインは収容所からラッセルに書き送った手紙で『論考』の概略を伝える。 ラッセルはその重要性に気づき、収容所へ面会に行かなければならないと思ったが、そもそもラッセル自身がにより刑務所に投獄されていた。 しかし、当時のイギリス代表で各国政府機関に顔の利いたケインズの尽力で得た特権により、原稿はラッセルやフレーゲの元へ届けられた。 そして、ウィトゲンシュタインはようやく釈放される。 『論考』出版 [ ] 『論考』出版の頃のウィトゲンシュタイン 右から2番目に座っている人物・ へ戻ったウィトゲンシュタインは『』の原稿をヴィルヘルム・ブラウミュラー社へ持ち込んだが、印刷代を自分で持つなら出版してもよいとの返事しか帰ってこなかったため、この出版社からの刊行は断念する。 というのもウィトゲンシュタインは復員して間もなく、親類や弁護士の説得に耳を傾けずに全財産を放棄していたためである。 次いで彼はの論文を載せていた『ドイツ観念論哲学への寄与』という雑誌にフレーゲを通じて掲載を依頼するが、無名の新人哲学者のために雑誌の全紙面を割くわけにはいかないとの返事によりこれも断念。 またこの間のやり取りによりフレーゲが『論考』をまったく理解していないことを知り落胆する。 その後、かつてやらへ財政支援をした際の代理人であり編集者でもあるを通じていくつかの出版社へ打診するがいずれもよい返事は得られず、ウィトゲンシュタインは失意の底へ落ち込むこととなる。 この年()の12月、ウィトゲンシュタインはラッセルとで待ち合わせて再会する。 二人はこの本について語り合い、その議論に基づいた序文を高名なラッセルが書いて付け加えれば出版の望みは増すだろうというアイディアに達する。 予想通りが関心を寄せてきたためラッセルは序文を執筆するが、その原稿を見たウィトゲンシュタインは、ラッセルがフレーゲ同様に『論考』を理解できていないことを知りまたも失望する。 、レクラム社からも断りの返事が戻ってきたころ、ラッセルは「私の序文などどうでもいい、イギリスで出版してみてはどうか」と手紙を書くが、もはや『論考』出版への情熱を完全に失っていたウィトゲンシュタインは「ご自由にどうぞ」と返信。 この頃ウィトゲンシュタインは再び自殺を考えるようになっていた。 著者であるウィトゲンシュタインが哲学への熱意を失い、田舎の小学校教師になったあとも(次節参照)なおラッセルは『論考』出版のために奔走した。 には友人のを通してイギリスのキーガン・ポール社から英訳版の出版契約を、さらにヴィルヘルム・オストワルトが編集するドイツの雑誌『自然哲学年報』にオリジナルのドイツ語版を掲載する契約を取り付けるに至る。 ラッセルの知らせを受けたウィトゲンシュタインは初めこそ素直に喜んだものの、オストワルトから送られてきた雑誌を見て、余りの誤植の多さに愕然とした。 しかしそれにやや遅れて開始された英語版の編集作業に関しては、翻訳にあたった数学者のとオグデンが誤植だらけのドイツ語版を見て感じた疑問点などをウィトゲンシュタインに問い合わせながら行ったため、その仕上がりはウィトゲンシュタインも満足のゆくものとなった。 このときオグデンからウィトゲンシュタインに寄せられた質問の一つは題名に関するものであった。 オストワルトのドイツ語版は原題 " Logisch-philosophische Abhandlung " のまま出版されたが、これをそのまま英訳すると意味の取りづらいものとなるため英語版用に新しく題名を考えた方がよいとオグデンは主張したのである。 ラッセルは " Philosophical Logic " という案を寄せたがウィトゲンシュタインは「哲学的論理学」などというものは存在しないと拒否し、ムーアの提案したの表題 " Tractatus Logico - Philosophicus " を採用した。 このタイトルは、の " Tractatus Theologico-Politicus " (『神学・政治論』)になぞらえたものである。 オグデンらとの打ち合わせを踏まえてウィトゲンシュタインは綿密な推敲、校正を行い、英独対訳版『』は11月、ようやく陽の目を見ることとなった。 『論考』後 [ ] 小学校教師として [ ] 『』の前書きでも自負しているように、ウィトゲンシュタインは、この本を書き終えた時点で、哲学の問題はすべて解決されたと考え、ラッセルやオグデンらが刊行準備に奔走しているのを尻目に、哲学を離れてに戻り、出征していたころから希望していた教師になる ため、9月から7月まで教員養成学校へ通い、小学校教師資格証明書を取得する。 教育実習でウィトゲンシュタインが訪れたのは、ウィーンの南にあるの比較的に発展した町の学校であった。 しかし、ウィトゲンシュタインは、もっと田舎へ行きたいとみずから希望して、そこから近い村()へ赴任することとなった。 ウィトゲンシュタインの教育方針は、紙の上の知識よりも、子供たちが自分で好奇心をもって見聞を広めることを重視したものであった。 の授業では、猫の骸骨を生徒と集めて標本を作ったり、夜に集まってをしたり、自分ので道端の植物を観察させたりした。 また、銅鉱山や印刷所、あるいは古い建築様式をもつ建築物のあるウィーンなどへの社会科見学もたびたび行なった。 その他にも、ではかなり早い段階からを教えるなど、非常に熱心な教育者であった。 というのも、ウィトゲンシュタインが教職資格を取得したのは、旧弊的な教育方針 に対する改革が、たちによって進められていた時期だったからである。 しかし、こうした動きに対して、農村などの保守的な地域では反発も生まれていた。 独自の教育方針を貫いたウィトゲンシュタインも、地元の村人や同僚の理解を得ることができず、しだいに孤立してゆくこととなる。 その上、ウィトゲンシュタインは教師としてきわめて厳格であり、覚えの悪い生徒への体罰をしばしば行なっていたため 、保護者たちは、よそ者であるウィトゲンシュタインに対する不信感を強めてゆくこととなった。 ただし、このような一面もある。 生徒の女の子が何度も綴りを誤ってノートに記入したため、ウィトゲンシュタインはいつものように体罰を加え、さらに字を誤った理由を問いただした。 だが、その女の子は、黙ったまま何も答えなかった。 ウィトゲンシュタインが「病気か」と尋ねると、女の子は「はい」と嘘をついた。 しかし、彼は、その嘘に気付くことができず、その女の子に涙を流して許しを請いた。 ウィトゲンシュタインは、に村の中学校へ転勤するが、1ヵ月後にはの小学校へ移る。 このころから、ラムゼイやケインズらと書簡を交わして、旧交を温めはじめている。 、トラッテンバッハの隣村()へ赴任した。 ウィトゲンシュタインは、この地で『小学生のための正書法辞典』の編纂に着手した。 オーストリアでは一部地域を除きが使用され、()とは発音・スペルが異なる。 また農村では方言 の影響も強く、子供たちはしばしばスペルを間違えた。 従来の教育法では、生徒の間違えた単語の正しい綴りを教師がそのつど黒板に書いて教えるという効率の悪い方法しかなかった。 また既存のは小学生が使用できるものではなかった。 生徒が自ら学ぶことを重視したウィトゲンシュタインは、生徒たちの書いた作文から使用頻度の高い基本単語をリストアップして、約2500項目からなる単語帳を作成した。 これを参照することによって、生徒はあらかじめ正しい綴りをみずから見出すことができるようになり、教師の側では生徒の作文にスペルミスを見つけたときに、一々訂正せずとも欄外に簡単な印を付けるだけで済むことになった。 この『小学生のための正書法辞典』は、に刊行された。 生前に出版された彼の著書は、『』とこの辞書だけである。 しかし、こうしたウィトゲンシュタインの熱意は、地元の父兄には理解されることなく、両者の間の溝はますます深まり、狂人だという噂まで広がった。 この頃、ケインズに宛てた書簡では、教職を諦めたときには、イギリスで仕事を探したいので、協力を頼みたいと伝えている。 4月、質問に答えられない一人の生徒に苛立ったウィトゲンシュタインは、例によって体罰を加えた。 頭を叩かれたその生徒はその場で気絶してしまい、さすがのウィトゲンシュタインも慌てて医師を呼んだ。 しかし、このとき気絶した生徒の母親を住み込みの家政婦として雇っていた男が、ウィトゲンシュタインに罵詈雑言を浴びせ、そのうえ他の村民と共謀してウィトゲンシュタインを精神鑑定にかけるよう警察に訴えるという法的行為に及んだため、事態は収拾困難になってしまった。 、彼は辞表を提出した。 辞職して間もないころ、絶望の淵にあったウィトゲンシュタインは、修道僧になって世捨て人として生きようと考えてを訪ねたが、から聖職者になる動機としては不純であると諭されて、諦めざるをえなかった。 しかし、それでも社会復帰をする気になれなかったため、ウィーン郊外のにある別の修道院へ行きになった。 建築家として [ ] ウィトゲンシュタインの設計したストーンボロー邸 失意に沈むウィトゲンシュタインを救う出来事がいくつかあった。 ひとつはこのころ、姉のマルガレーテ・ストーンボローの新しい家の設計をしたことである。 かつて、ウィトゲンシュタインから財政支援を受けていた建築家の紹介によりヴィトゲンシュタイン家と親しくなっていたロースの弟子はすでにウィトゲンシュタインの兄パウルの陶磁器コレクションの展示室などを手がけており、次いでマルガレーテの私宅の建築依頼を引き受けたさいに、大まかな設計図が完成したところでウィトゲンシュタインに細部の仕上げに関して協力をもちかけたのである。 細部も含めて設計図が完成したのはのことであるが、家の落成までには実に2年を要することとなった。 というのも、彼がドアノブや暖房の位置や部品のような細部にまで偏執的にこだわり、1ミリの誤差も技師に許さなかったためである。 ほとんど完成に近づいたところで「天井をあと3センチ上にずらしてほしい」と言い出すなど、建築業者泣かせの無理な注文もしばしば出したと伝えられている。 ようやく完成した家は、外装がほとんどない上にカーペットやカーテンすら一切使用しないという、極端に簡潔ながら均整のとれたものとなった。 当時のウィーンの優美な建築の中にあっては極めて異色なこの家は、としてある程度の賞賛を得た。 この知的な仕事への献身がウィトゲンシュタインにとっては精神を回復させるのに役立った。 同時期にはこの建築の仕事のほかにも、第一次世界大戦末期にイタリアの捕虜収容所で知り合った彫刻家ミヒャエル・ドロービルのアトリエで少女の胸像を製作するなどして、もっぱら教師生活の挫折による精神的疲労を回復するための日々を送った。 この胸像のモデルになったのはマルガレーテの紹介で知り合ったマルガリート・レスピンガーというスイス人女性であり、やがて二人はいずれ結婚することになるのだろうと周囲からみなされるほど親密になった。 ウィトゲンシュタインがその生涯においてこうした関係をもったことが知られている女性はこのマルガリートただ一人であるが、この交際もには破綻した。 ウィーン学団 [ ] ウィトゲンシュタインがまだ小学校教師として悪戦苦闘していた頃、学会では『』が話題の的となっていたが、特にの名で知られる研究サークルでは、出版直後のにが『論考』をゼミのテキストに用いてからというもの、『論考』を主題とした講演を行なったり、メンバー同士で1行ずつ検討を加えながら輪読したりするなど、並々ならぬ関心を寄せていた。 ウィーン学団とは、第一次世界大戦の前後から、の若手の学者たちが、や、、などの画期的な研究成果に刺激を受けて、作ったサークルを母体とする研究グループである。 その中心となったのは、や、らであり、やがて、( Philipp Frank)、、、()、、など錚々たるメンバーを擁することとなるこのサークルは、にを名乗るようになる。 ウィーン学団は、を標榜し、を脱却して科学的世界観を打ち立てようとの志を抱いていた。 そして、そのためには論理学と科学、とりわけ数学の基礎に関する徹底的な再検証が必要であると考えて、ラッセルやフレーゲの仕事を熱心に研究していたのである。 そんな矢先に現れた『論考』は、彼らにとって『』のようなものとさえなった。 シュリックは、に「自分は『論考』の重要さと正確さを確信しており、そこに述べられている思想を世に知らしめることを心底から望んでいる」との手紙を当時プフベルクにいたウィトゲンシュタインに書き送り、何とか面会したいという意向を伝えた。 ウィトゲンシュタインは、快い返事を出したが、両者の都合がつかなかったために、シュリックが実際にストーンボロー邸に滞在していたウィトゲンシュタインのもとを訪れるのは、2月のこととなった。 ウィトゲンシュタインは、すぐにシュリックが理解力もあり人格も高潔な優れた人物であることに気付き、それ以後たびたび会合をもって議論を交わすようになった。 シュリックは、ウィトゲンシュタイン本人をウィーン学団に引き入れようとしていたがこれは叶わなかった。 それどころか、当初ウィトゲンシュタインは、学団の討論会に顔を出すことすら拒絶した。 何度かの会合を経た後に、ようやくシュリックはウィトゲンシュタインから「学団の討論会とは別のところで、ごく少数の気の合いそうなメンバーとだけなら会ってもよい」との返事を引き出すことに成功する。 選ばれたのは、カルナップ、ワイスマン、ファイグルらであった。 シュリックは、それまでにウィトゲンシュタインと接して得た経験から、いつも学団で交わされているような哲学談義をウィトゲンシュタインが望んでいないことを理解していた。 そのため、他のメンバーにはなるべくこちらから議論をもちかけるのではなく、ウィトゲンシュタインに自発的に語らせるよう厳命した。 すると、ウィトゲンシュタインは、彼らに対して「自分はもう哲学には関心がないのだ」と強調したり、突然の詩(そのは論理実証主義の対極にある)を朗読するなどしてカルナップらを驚愕させた。 一方、ウィトゲンシュタインも、シュリックらとの議論を通して、彼らが『論考』を根本的に誤解していることに気付き、ときには議論をまったく拒絶した。 こうした会合がしばらく続いたが、やがてウィトゲンシュタインは、カルナップとファイグルに対しては、方法論や関心事だけでなく、気質的にも相容れないものがあると感じて、距離を置くようになる。 こうして、ウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、シュリックとワイスマンの二人に限られてしまうが、この二人とは後に『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』として記録がまとめられるほどの対話を重ねており、ワイスマンとは共著を出版する計画まで立てていた。 しかし、ウィトゲンシュタインのケンブリッジ復帰後(次節参照)のに、シュリックがウィーン大学構内での学生に射殺される と、それきりウィトゲンシュタインとウィーン学団との交流は、一切断ち切られてしまう。 このウィーン学団との関係がまだ友好的に保たれていた3月、ウィーンでオランダの数学者が「数学・科学・言語」という題でに関する講演を行なった。 ワイスマンとファイグルは、嫌がるウィトゲンシュタインを何とか説得して、この講演に出席させることに成功した。 講演終了後、3人は近くの喫茶店へ入って数時間を過ごした。 そのとき、突如ウィトゲンシュタインが哲学について雄弁に語りはじめた。 そのときウィトゲンシュタインが語ったのは、後期の彼の思想の萌芽ともいえるものであり、「おそらくこれを契機としてウィトゲンシュタインは再び哲学者になったのだ」とファイグルは述べている。 また、ウィトゲンシュタインは、同じ頃にケンブリッジの若い哲学者であり『論考』の英訳者でもあるとも会って議論を重ねており、それを通じて次第に『論考』には重大な誤りがあるのではないかと考えるようになったことも哲学への関心を取り戻すきっかけとなっている。 ウィトゲンシュタインは、哲学研究に再び取り組む意思を固め、ストーンボロー邸の完成した秋から、ケインズと手紙のやり取りを通してイギリスへ行く手筈を立て、にケインズの客として16年ぶりにへ足を踏み入れた。 その日、ウィトゲンシュタインを出迎えたケインズは妻に宛てた手紙にこう書いた。 — Well, God has arrived. I met him on the 5. 15 train. ケンブリッジへの復帰 [ ] ウィトゲンシュタインは学位を取得していなかったが、これまでの研究で博士号には十分だと考えたラッセルの薦めで、『』を博士論文として提出した。 面接でウィトゲンシュタインはラッセルとムーアの肩を叩き、「心配しなくていい、あなたがたが理解できないことは分かっている」と言ったという。 ムーアは試験官の報告のなかで「私の意見ではこれは天才の仕事だ。 これはいかなる意味でもケンブリッジの博士号の標準を越えている」という趣旨のコメントを記している。 (但し、これはケンブリッジに導入されたアメリカ流の学位制度を軽蔑していたムーアによる学位制度への皮肉だという解釈もある。 )ウィトゲンシュタインは講師として採用され、のフェローとなる。 この時期、と呼ばれた一群に参加して、のや経済学者の経済理論についての議論を行ったりもしている。 ウィトゲンシュタインの墓。 墓石の上方に小さなハシゴが架けられているのが見える。 これは『論考』の命題6. 54にある「読者はハシゴを登りきったあとでそのハシゴを取り払ってしまわなければならない」(=ここに書かれているようなことを乗り越えてもらわなければならない)という記述にちなんでいる。 にムーアが退職し、すでに哲学の天才と目されていたウィトゲンシュタインはの哲学教授となり、その後すぐにのを獲得した。 1946年10月25日、どの問題が本物である、あるいはまさに言語学的な問題であるかをと議論した際にケンブリッジ大学倫理科学部の会合でポパーに対してを振り回したとして「招待された講師を脅さないように」とポパーに責められ、激怒して会合から去ったと言われている。 ただし、この話は目撃者の証言がまちまちである。 ウィトゲンシュタインは哲学研究のあいまにをみたりを読んだりして気分転換するという意外な面があった。 これは、音楽はまでしか認めず、それよりも後の時代の音楽作品は頽廃だとして受け入れなかったことと対照的である。 また、彼がであったという面についてはかなり議論があるが、ほか何人かの男性と関係をもったことは確かだといわれている。 晩年のウィトゲンシュタインの仕事は彼の意向で西海岸の田舎の孤独のなかで行われた。 にと診断されたときには、死後に出版されることになる後期ウィトゲンシュタインの主著『』の原稿がほぼできあがっていた。 生涯最後の2年をウィトゲンシュタインは、、、ので過ごした。 オックスフォードで彼の影響をうけたのがである。 、ウィトゲンシュタインは最後の挨拶をしようとした友人たちが到着する数日前、ケンブリッジで死去した。 最期の言葉は「素晴らしい人生だったと伝えてくれ Tell them I've had a wonderful life 」だったという。 その哲学 [ ] ウィトゲンシュタインの哲学は極めて単純には前期と後期に分けられる。 やや詳しく見れば、 前期(1889-1921年) (ほとんど不詳な)学生時代、『』のアイディアが纏められつつあった第一次世界大戦とそれに続く時代(「日記」)、『論考』の時代。 中期前半(1922-1933年) 哲学への復帰と現象主義や文法一元論、およびそこから推移してゆく『哲学的文法』、『哲学的考察』の時代。 中期後半(1933-1935年) 『考察』の考えからの変化を深めていく『黄色本』、『青色本』、『茶色本』。 後期前半(1936-1945年) 『哲学探究』、特にその第1部400節ころまで。 後期後半(1946-1949年) 『哲学探究』第1部の残余の執筆を経て、さらなる変化に到るとも想像されている第2部への時代。 晩期(1949-1951年) 死の直前の『確実性の問題』。 とその思考は細かく推移している。 以下では、『論考』、『哲学的文法』、『青色本』、『哲学探求』、『確実性の問題』の5著作をそれぞれの段階の主要素材として彼の哲学の概要を紹介する。 『論考』は数字が振られた短い断章の寄せ集めとして構成されているが、ウィトゲンシュタインによれば命題 4 に対しては 4. 1、4. 2 …が、4. 1 に対しては 4. 11、4. 12 …がそれぞれ注釈・敷衍を加えるといった関係になっており、したがって(その番号付けがどこまで厳密なものかはさておき)『論考』中の小数点以下のない七つの断章こそ『論考』の基本主張だということになる。 その七つの断章は以下の通りである。 「世界は起こっている事の総体である」 " Die Welt ist alles, was der Fall ist. 「起こっている事、すなわち事象とは、諸事態の存立のことである」 " Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten. 「事象の論理像が思想(思考対象)である」 " Das logische Bild der Tatsachen ist der Gedanke. 「思想は有意義な命題である」 " Der Gedanke ist der sinnvolle Satz. " 中期前半:『哲学的文法』 [ ] 詳細は「」を参照 ウィトゲンシュタインの主著は『論考』である(まとまった著作はこれしか出版していないので当然である)が、今日では『哲学探究』も広く知られている。 『探究』は1953年、彼の死後2年経ってようやく出版された。 2部に分けられた(厳密にいうと、2つの遺稿が『哲学探究』という1つの題のもとに刊行された)うちの第1部(番号のつけられた693の断章)の大部分は、1946年には出版直前までこぎ着けていたが、ウィトゲンシュタイン自身によって差し止められた。 第1部より短い第2部は遺稿の管理人であり『探究』の編纂者でもあった分析哲学者エリザベス・アンスコムとラッシュ・リーズによってつけ加えられた。 ウィトゲンシュタインの解説者たちの間ですべての見解が一致することはまずありえないとしばしばいわれるが、とりわけ『探究』に関しては紛糾を極め、議論百出の様相を呈している。 『探究』のなかで、ウィトゲンシュタインは哲学を実践する上で決定的に重要であると考える言語の使用についての所見を述べる。 意味の源泉を「言語の使用」に帰するこうした見解は、意味を「言葉からの表出」とする古典的言語学の観点はもちろん、『論考』時代のウィトゲンシュタイン自身の考え方からも大きくかけ離れている。 後期ウィトゲンシュタインの最もラディカルな特徴は「メタ哲学」である。 以来およそすべての西洋哲学者の間では、哲学者の仕事は解決困難に見える問題群(「自由意志」、「精神」と「物質」、「善」、「美」など)を論理的分析によって解きほぐすことだという考え方が支配的であった。 しかし、これらの「問題」は実際のところ哲学者たちが言語の使い方を誤っていたために生じた偽物の問題にすぎないとウィトゲンシュタインは考えたのである。 言語は日常的な目的に応じて発達したものであり、したがって日常的なコンテクストにおいてのみ機能するのだとウィトゲンシュタインは述べる。 しかし、日常的な言語が日常的な領域を超えて用いられることにより問題が生じる。 分かりやすい例をあげるならば、道端で人から「いま何時ですか?」と聞かれても答えに戸惑うことはないだろう。 しかし、その人が続けて「じゃあ、時間とは何ですか?」と尋ねてきた場合には話が別である。 ここで肝要な点は、「時間とは何か」という問いは(伝統的な形而上学のコンテクストにおいてはたえず問われてきたものの)事実上答えをもたない——なぜなら言語が思考の可能性を決定するものだと見なされているから——ということである。 したがって厳密にいうとそれは問題たりえていない(少なくとも哲学者がかかずらうべきほどの問題ではない)とウィトゲンシュタインはいう。 ウィトゲンシュタインの新しい哲学的方法論には、形而上学的な真実追究のために忘れ去られた言語の慣用法について読者に想起させることが必要だった。 一般には、言語は単独ではなんら問題なく機能するということが要点である(これに関しては哲学者による訂正を必要としない)。 このように、哲学者によって議論されてきた"大文字の問題"は、彼らが言語および言語と現実との関係について誤った観点にもとづいて仕事をしていたためにもたらされたのだということを彼は証明しようと試みた。 歴代の西洋哲学者は人々から信じられてきたほど「賢い」わけではないのだ、彼らは本来用いられるべきコンテクストを離れて言語を用いたために言語の混乱に陥りやすかっただけなのだと。 したがってウィトゲンシュタインにとって哲学者の本務は「ハエ取り壺からハエを導き出す」ようなものであった。 すなわち、哲学者たちが自らを苦しめてきた問題は結局のところ「問題」ではなく、「休暇を取った言語」の例にすぎないと示してみせることである。 哲学者は哲学的命題を扱う職人であるよりはむしろ苦悩や混乱を解決するセラピストのようであるべきなのだ。 晩期:『確実性の問題』 [ ] 詳細は「」を参照 癌による自らの生涯の終わりを目前にし、眠っていた若き日のウィトゲンシュタインが再び目を覚ましたかのように、死に至る直前まで熱意をもって書き続けたもの。 著作(日本語訳書) [ ]• 『』全10巻・補巻2、、1975年-1988年。 『』訳、1975年。 『』奥雅博訳、1978年10月。 『』訳、1975年。 『』訳、1976年。 『』・訳、1976年。 『』・訳、1975年。 『』・訳、1976年。 『』訳、1976年。 『』・訳、1975年。 『』藤本隆志訳、1977年11月。 『』訳、1985年4月。 『』訳、1988年12月。 『論理哲学論考』• 『』・訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 6〉、1968年。 「論理哲学論」『ラッセル,ウィトゲンシュタイン,ホワイトヘッド』編、中央公論社〈世界の名著 58〉、1971年。 「論理哲学論」『』山元一郎編、中央公論社〈 世界の名著 70〉、1980年1月。 『』山元一郎訳、中央公論新社〈〉、2001年7月。 『』訳、岩波書店〈 青689-1〉、2003年8月。 『』訳、筑摩書房〈〉、2005年5月。 『』訳、、2007年1月。 『』木村洋平訳・注解、社会評論社、2010年10月。 『論理哲学論考』訳・解説、光文社古典新訳文庫、2014年1月。 『小学生のための正書法辞典』・訳・解説、講談社学術文庫、2018年12月。 『反哲学的断章』• 『反哲学的断章』丘沢静也訳、青土社、1982年3月。 『反哲学的断章』丘沢静也訳、青土社、1995年8月、新版。 『』丘沢静也訳、青土社、1999年7月、改訂新訳。 『』編、訳、勁草書房〈双書プロブレーマタ 4〉、1991年10月。 ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン 書簡 、 著 『ルードヴィッヒ・ウィトゲンシュタインからの書簡集 追想と共に』訳注、岡田柾弘、1993年。 『哲学的探究』• 『哲学的探究 第1部』訳・解説、産業図書、1994年3月。 『哲学的探究 第2部』黒崎宏訳・解説、産業図書、1995年1月。 『『哲学的探求』読解』黒崎宏訳・解説、産業図書、1997年4月。 『哲学探究』訳・解説、岩波書店、2013年8月。 『』編、・訳、勁草書房〈双書プロブレーマタ III-2〉、1996年11月。 『』・訳、新書館、1997年9月。 『『論考』『青色本』読解』黒崎宏訳・解説、産業図書、2001年7月。 『』編、訳、、2005年11月。 『』訳、、2010年4月。 『』訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫 ウ15-2〉、2010年11月。 『』訳、透明標本、、2010年8月。 ウィトゲンシュタイン 著 、 編著 『ウィトゲンシュタインからの書簡集 「追想の記」と共に』訳注、岡田征弘〈数理哲学へのきっかけ論集 4〉、2011年。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 本人は生涯「ヴィ」と発音していた。 2013年12月11日閲覧。 2014年5月22日閲覧。 『意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編』、ISBN:978-4-06-258547-7、p12• のちに捕虜収容所で友人から「クリムトが君と同じ姓の女性を描いているね」といわれたとき、「姉だけど」と答えても信じてもらえなかったという。 ハプスブルク家治下のウィーンではそもそも自殺率が高かった。 ウィトゲンシュタインとヒトラーが共に収まっているとされる集合写真が紹介されることがあるが、同級生だったという確証はない。 このアイディアは飛行機には応用できない欠陥を備えていたが、中に推進されたの研究で役立つこととなった。 この時点ですでにラッセルは、ウィトゲンシュタインのような天才に教えられることなどほとんどない、もう哲学の分野で自分が何かを達成することはないだろうといった感想を漏らしている。 主著『数学原論』を書き終えていたこともあるが、実際にこれ以降ラッセルが著した哲学や数学、論理学についての著作はほとんどが一般大衆向けの解説書の類いであった。 この寄付を受けた芸術家のなかにはや、、らがいる。 ちなみにウィトゲンシュタインに宗教的な影響を与えた人物には他に (『告白』を史上最も重要な著作と呼んでいる)、 (このときの数少ない私物の一つ『』を全文暗誦できるほど読み込んだといわれる)、 (「知性に情熱はないが、キルケゴールは信仰には情熱があるといっている」と共感を寄せている)などがいる。 『論考』を捕虜収容所で書き上げたという俗説があるが、これは後に創られた神話である。 原稿の郵送は認められなかった。 このころの友人宛の書簡では、教師になるもう一つの理由として、(トルストイの本に書かれているような)田舎で子供たちに教えることでしか、自分の病み疲れた精神を癒す方法はないだろうと思ったことを挙げている。 前のオーストリアでは、教えられたことを丸暗記する能力だけが重視され、教科書に載っていない内容を教えることは禁止されるという極度のが行われていた。 体罰自体は当時日常茶飯事であったが、ウィトゲンシュタインの教育方針への疑念もあって、不信感が一層強いものになった。 赴任地は方言の地域。 当時オーストリアの地方都市で入手可能な標準ドイツ語の辞書は、学術目的の高価なものか、肝心の基本単語を省いた簡略版しかなかった。 ( Georg Henrik von Wright)は、この建築には『』と同じ「静的な美」があるといい、またマルガレーテは「家の形をした論理学」と呼んだ。 このため、しばしば「ウィーン学団(ないし論理実証主義)は、ウィトゲンシュタインの影響下にあった」とされるが、『論考』の刊行以前からウィーン学団は独自に存在し活動していたことや、ウィーン学団が『論考』を熱烈に支持したとしても、(後述するように)著者にとってそれは誤解以外の何ものでもなかったこと、両者の交流は結局のところウィーン学団が望んだほど実り豊かとはいえないものに終わったことなどから、ウィトゲンシュタイン(ないし『論考』)がウィーン学団へ与えた影響は限定的なものである。 また、影響が見られる例として挙げられることの多い「有意味性の検証可能性条件」なども、ウィトゲンシュタインからは独自に案出されたものだとする論者もある。 シュリックは、4月に一度オッタータルを訪ねているが、このときにはすでにウィトゲンシュタインが教師を辞職していたため、会うことができなかった。 シュリック自身はドイツ人だが、ユダヤ人に見えなくもない風貌をしていた。 ナチスによるにより、ユダヤ系の血を引いていたウィトゲンシュタインとしては止むを得ずイギリス国籍を選ばなければならなくなった。 もし、ウィトゲンシュタインが『探究』を完成させるまで生きていたら、第2部に見られる思想のいくばくかは第1部へ取り込まれ統合されていただろうという配慮による。 両者には比較的独立性が認められるので疑問視する向きもある。 出典 [ ]• 『アスペルガー症候群の天才たち』マイケル・フィッツジェラルド(著) 石坂 好樹 訳 2008年• 、15頁。 11-12. 、23頁。 不思議なことにケンブリッジのバートランド・ラッセルとの邂逅の際、ウィトゲンシュタインはフレーゲについて直接は知らなかったという話が存在する。 ケンブリッジ大学に数学を教えるラッセル(Russell)という名前の教官がいることを誰かから教えられたのは、マンチェスター時代である可能性が高いようである。 123-124• 、28-29頁。 Autism and Creativity: Is There a Link between Autism in Men and Exceptional Ability? (2003) written by Michael Fitzgerald• 、34頁。 石田優、「」 学位論文 34523 甲第35号, 2015年, 神戸芸術工科大学。 ウィトゲンシュタインの写像理論を引き合いに、ストンボロー邸は、アイデアの正確無比な写像の繰り返しによって作り出されているとも言われる。 、33頁。 、36頁。 、38頁。 、20-21頁。 参考文献 [ ]• 『ウィトゲンシュタインの知88』編、〈Handbook of thoughts〉、1999年11月。 資料 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2018年10月) 解説書等 [ ] 研究者の著書 [ ]• 編『ウィトゲンシュタイン読本』()• 『ウィトゲンシュタイン 「私」は消去できるか 』()• 『ウィトゲンシュタインの生涯と哲学』()• 『ウィトゲンシュタイン入門』(1995年)• 「48 ヴィトゲンシュタイン」『学問』所収、講談社(2004年)163-165頁、• 西部邁「保守の哲学的根拠 L・ヴィトゲンシュタイン」『思想の英雄たち 保守の源流をたずねて』所収、角川春樹事務所〈ハルキ文庫〉(2012年)213-228頁、• 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』哲学書房(2002年)• 『ウィトゲンシュタイン』()• ・黒崎宏編『ウィトゲンシュタイン小事典』()• 『ウィトゲンシュタインの建築』、新装版()• 『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』()• 『ウィトゲンシュタインのウィーン』平凡社ライブラリー()• 『ウィトゲンシュタイン家の人びとー闘う家族』中央公論社 2010年• ブライアン・マクギネス『ウィトゲンシュタイン評伝』藤本 隆志, 今井 道夫, 宇都宮 輝夫, 高橋 要、法政大学出版局〈叢書・ウベルシタス〉、1994年。 映画 [ ]• 「」(イギリス映画、1992年) 監督:、脚本: 戯曲 [ ]• 谷賢一『従軍中のウィトゲンシュタイン 略 』 2019年 ウィトゲンシュタインが登場するフィクション [ ]• 『ケンブリッジ・クインテット』ジョン・L・キャスティ著• 『神狩り』著 関連項目 [ ] ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 外部リンク [ ]• 『』 -• 『』 -• 『』 -• (英語) - 「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の項目。 (英語) - 「ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン」の項目。

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ゲーテとは

ウィト ゲン シュタイン 名言

「ウィトゲンシュタイン」とはどんな人物? ウィトゲンシュタインは分析哲学の第一人者 ウィトゲンシュタイン(1889年~1951年)は、オーストリアのウィーン出身の哲学者です。 20世紀の分析哲学の発展に大きな影響を与え、分析哲学の第一人者とされます。 その研究は大きく前期と後期にわけられ、前期における著作が『論理哲学論考』(『論考』とも呼ばれる)となり、それを自己批判して新たな思索が展開された後期における著作が『哲学探究』(『探求』とも呼ばれる)です。 『論理哲学論考』『哲学探究』とも20世紀を代表する哲学書として評価されています。 ウィトゲンシュタインの表記に注意 ウィトゲンシュタインのフルネームは「ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨハン・ヴィトゲンシュタイン(独: Ludwig Josef Johann Wittgenstein)」です。 「Wi」のドイツ語の発音はウィではなくヴィであるため、「ヴィトゲンシュタイン」とするのが近い発音になりますが、日本では「ウィトゲンシュタイン」と表記されることが多いことから、この記事ではそれに倣って表記しています。 「ウィトゲンシュタイン」の思想とは ウィトゲンシュタインの哲学の方法は「言語批判」 ウィトゲンシュタインは前期、後期ともに哲学の方法として「言語批判」を貫いています。 ふだん使っている言語が哲学における問題の原因であり、言語の罠にかかって多くの難問が哲学の長い歴史において議論されてきたとする批判の立場に立ち、言語について批判的に考察しました。 『論理哲学論考』において「言語の限界」を設定した ウィトゲンシュタインは、これまでの哲学は神や魂といった解けない問題をもてあそんでいたにすぎないとして、哲学の解くべき問題と解き方を明確にするために、言葉の本質と限界を解明しようと考えました。 『論理哲学論考』の序文で本書の意義として、「およそ語りうることについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない」と述べています。 そしてそれゆえに、思考されたものの表現に限界を引かなければならず、限界を引くためには限界の両側を思考しなければならないとしました。 ウィトゲンシュタインは言語の記述の限界を考察した結果、言葉で世界は完全に記述されること、さらに哲学の諸問題は最終的に解決されたと宣言しました。 『論考』が刊行されると、ウィトゲンシュタインは哲学と決別し、小学校の教員となりました。 『哲学探究』において「言語ゲーム」論を提示した 哲学から決別したウィトゲンシュタインでしたが、1928年にウィーンで開催された数学者の講演を聴講した際に、哲学においてやり残したことがあることに気づき、再び哲学と取り組むこととなり、それから16年後に『哲学探究』を刊行しました。 『論考』で示した、結晶のように純粋な論理は間違いだったとして、理想的な論理ではなく地に足をつけて実際に営まれる言語活動のことを「言語ゲーム」という概念で表しました。 ウィトゲンシュタインが提示した「言語ゲーム」とは 「言語ゲーム」とは、人間の生活におけるさまざまな言語現象のことを表し、言語以外の、言語がかかわる活動も含んで言語ゲームと呼びます。 具体的には、言葉を発するときの表情や動作、感覚、他者とのかかわりや名前をつけること、それらすべてが言語ゲームであるといいます。 さらに、言語活動は理性による思考の結果ではなく、歩いたり、笑ったりする人間の活動と同じ種類の一つの活動に過ぎず、とくに優れた活動であるわけではないとして、言語とは、ただの言語によるゲームなのだとしました。 人は生きるうえで慣習を持ちますが、慣習を語ることなく言語ゲームを繰り広げます。 人は自分が生きているそのことを語ることはできず、言語ゲームとは、語られることのない、生活様式の中に基盤を持つものだと説明されます。 ウィトゲンシュタインは、生涯めぐらした考察において、「語りえぬもの」を語り続けたといえます。 「ウィトゲンシュタイン」の著書 『論理哲学論考』1921年 『論理哲学論考』は、ウィトゲンシュタインの生前に刊行された唯一の著作です。 『論理哲学論考』の目的は、言語と思考の限界を思考し、哲学問題に終止符を打とうとするものです。 『論考』では基本となる7つの命題があり、それぞれの番号が振られた短い断章が積み重なるように構成されています。 1.「世界は成立していることがらの総体である」という命題から始まり、最後の命題は先に紹介した7.「語りえぬものについては、沈黙するしかない」です。 1.に対する注釈として、1. 1「世界は事実の総体である。 事物の総体ではない」が掲げられるという、近代論理学の形式に基づいて思想が展開されます。 本書では論理学に厳密に基づいて言語の世界像を構築し、哲学の不備を指摘したことから、当時の哲学界に衝撃を与えました。 『哲学探究』1953年 後期の著作である『哲学探究』は、ウィトゲンシュタインの死後2年が経過してから出版されました。 本書は、『論理哲学論考』において、哲学のすべての問題は解決したと宣言したことを考え直し、哲学に復帰してから16年の長きにおける思索の成果をまとめたものです。 後期における哲学は、日常に使われる言語の働きの理解へと方向を大きく転換しました。 本書では、世界は言語の実践であるところの言語ゲームのもとで現象しているという言語論を展開しています。 本書の序文には、この書物は一連の思索におけるスケッチを整理し、一枚の風景画に見えるようにアルバムにした、と書かれているように、膨大な断章が章の番号順に並べられて構成され、研究者には未発掘の鉱脈とも喩えられます。 「ウィトゲンシュタイン」の名言 「語ることができないことについては、沈黙するしかない」 『論考』の最後の言葉は、ウィトゲンシュタインの名言として有名な「語ることができないことについては、沈黙するしかない」です。 「本書に表された思想が真理であることは決定的であり、それゆえ問題はその本質において最終的に解決された」と述べていますが、ウィトゲンシュタインが解決したとしたこととは、「語りえないこと」の証明であったといえます。 「考えるな、見よ」 『探求』において、言語の本質的な意味を考えるな、言語の使用の類似性や関連を見よ、という意味で書かれた言葉「考えるな、見よ」が有名です。 言語ゲームの概念を説明した言葉です。 「ウィトゲンシュタイン入門」の本を紹介 ウィトゲンシュタインの哲学は難解で、読み解くのには相当の時間がかかると多くの研究者が述べています。 この記事ではウィトゲンシュタインの思想の概要のみを紹介しましたが、興味を持たれた方は解説書とともに本文を読み進めてみることをおすすめします。

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