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鳥すけ

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「となりのトトロ」でのススワタリ [ ] 黒くて丸い、子供の拳ほどの大きさの毛玉状の身体。 真ん中に二つの目がついているという姿。 形状的には「」に近い。 イメージソング「すすわたり」が収録されたCDの歌詞カードなどには、本編での姿を頭部として、胴や足が付いたイラストも存在する。 主人公であるサツキとメイ、その父タツオの三人が引っ越してきた古い家に大群で住み着いていて、サツキたちによって住居部分が掃除され、日の光が入るようになってからは、暗い二階の壁のすきまなどに潜んでいた。 物語の舞台となった地域では、住処をと埃だらけにしてしまうものと言い伝えられているようで、ススワタリの気配を追って二階へ上がったサツキとメイの手足もまっ黒になってしまった。 空き家の管理をしていた大垣家のおばあちゃんは、その様子を見ただけで「こりゃススワタリが出たな」と合点し、「妖怪ですか?」というタツオの問いには「そったらおそろしげなもんじゃねえよ」「ニコニコしとれば、悪さはしねぇし」と言って、自身も子供の頃にはススワタリが見えたと語っている。 不思議でほとんど無害な存在ではあるものの、人間と好んで共存しようとする訳でもないようで、おばあちゃんの「いつの間にか、いなくなっちまうんだ」という言葉通り、ススワタリの群れは、その日の夜に、どこへともなくゆっくりと飛び去っていった。 劇中における本来の「まっくろくろすけ」はススワタリそのものではなく、何かの絵本に登場するキャラクター で、正体不明の気配に騒ぐ二人の娘に、タツオが「明るいところから急に暗い所に入ると、目がくらんで『まっくろくろすけ』が出るのさ」と言うシーンで名前が出てくる。 この遣り取りから、サツキとメイはススワタリの事を「まっくろくろすけ」と呼ぶようになった。 「ワキャッ! 」という小さな声で囁くように鳴くが、この音声はアフリカに住むの声をサンプリングし、が作成したものである。 「千と千尋の神隠し」に登場するススワタリとは異なり、手足は無い。 「千と千尋の神隠し」でのススワタリ [ ] 魔法使いの湯婆婆(ゆばーば)が経営する「神様のお湯屋」油屋で、ボイラー担当である釜爺のもと、何匹もが下働きをしている。 こちらのススワタリは針金のような細い手足が生えたのような姿 で、石炭などの物を持って運ぶことができる。 エサは金平糖。 脚注 [ ] [].

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経歴 [ ] ウィキソースに の原文があります。 日本海軍の航空草創期のである。 訓練飛行中に操縦索が切れ、搭乗機が墜落し右大腿骨、頭蓋骨、顔面を骨折した。 再手術を行うなどして、 療養生活は3年近くに及ぶ。 復帰後、設立委員長となり、次いで初代部長として教育にあたる。 市丸の指導は教育学的にも評価され 、市丸は 予科練育ての親といわれる。 において第二十一航空戦隊司令官として南方戦線で指揮をとり、次いで第十三連合航空隊司令官として内地防空にあたる。 (昭和19年)に第二十七航空戦隊司令官としてに赴任し、翌年ので戦死した。 市丸の戦死の状況は明確ではないが 、・に宛てた手紙(「ルーズベルトニ与フル書」)を残し戦後有名となる。 手紙は博物館に保管されている。 なお市丸は同期生でしたとは親友の間柄であった。 年譜 [ ]• 1891年(明治24年)9月20日 - 佐賀県東松浦郡久里村柏崎に生まれる• (明治43年) - 旧制第10期卒業• - 入校• (2年)- 海軍兵学校卒業• (大正15年)7月 - 搭乗機の墜落事故• (4年) - 設立委員長• (昭和5年) - 予科練初代部長• (昭和11年)10月 -• 12月 - 海軍• (昭和12年)11月 - 司令• (昭和13年)12月 - 付き• (昭和14年)4月 - 空司令• 11月 - 司令• (昭和17年)5月 - 海軍• 8月 - 司令部付• 9月 - 第21航空戦隊司令官• (昭和18年) - 付• 11月 - 第13連合航空隊• (昭和19年)8月 - 第27航空戦隊司令官。 硫黄島に着任• (昭和20年) - 米軍硫黄島に上陸開始• - 海軍中将• - 戦死したと推定される。 戦死状況 [ ] 1945年3月26日未明、日本軍硫黄島守備隊は最後の組織的反攻を行い、、市丸以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ総攻撃をかけた。 市丸少将は遺書としてに宛てた『』をしたため、これを生まれの三上弘文兵曹に英訳させ日本語、英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越してこれを村上治重大尉に渡した。 村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し戦死。 『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカでに掲載された。 それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、の打倒を掲げるの大義名分の矛盾を突くものであった。 「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「」ヲ首領トスル「」ト協調セントスルヤ。 」(ルーズベルトは4月12日に死去したため、『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる。 ) なお、公式な戦死日は訣別のが打電された3月17日とされている。 市丸の最期を確認した者はおらず、遺体も発見されていない。 市丸が所有していた刀を米兵が拾い、の骨董店に並べられていたが、市丸の遺品であることが判明しのテレビ番組を通じ遺族の元へ戻っている。 関連書籍 [ ]• 『市丸利之助歌集』(市丸晴子編、出門堂、2006年) 市丸はに通じており、長女晴子によって遺品から編まれた。 『 米国大統領への手紙 市丸利之助伝』 新版(肥前佐賀文庫(一)出門堂、2006年)。 旧版は、1996年• 『硫黄島 栗林中将の最期』(、2015年)。 ドキュメント4「文人将軍 市丸利之助小伝」収録 市丸の登場する作品 [ ] テレビ [ ]• 『』(出演:、2006年) 映画 [ ]• 『』(出演:、2006年) 脚注 [ ]• 『嗚呼、草刈少佐』市丸利之助「心兄 草刈英治君」• 参考文献 [ ]• 編『回想の日本海軍』原書房• 『嗚呼、草刈少佐』政教社• 歴史と旅増刊号『太平洋戦争名将勇将総覧』秋田書店• 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]• (原文)• (現代仮名遣い及び英文: A Note to Roosevelt).

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この記事はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 初代中村錦之助 2. 萬屋錦之介 出身地 職業 ・ ジャンル 映画・テレビドラマ・舞台 活動期間 - 活動内容 俳優・映像制作会社経営 父 母 小川ひな 兄弟 (長兄) (次兄) (次々兄) (弟) 妻 1961年 - 1965年 1966年 - 1987年 1990年 - 1997年 子 (長男・淡路の連れ子) 男子 (次男・淡路の連れ子) (三男・淡路との実子) (四男・淡路との実子) 当たり役 映画 『』菊丸 『』源氏九郎 『』 『』 『』番場の忠太郎 『』飯倉七代 『』関の弥太郎 『』丹下左膳 『』 テレビドラマ 『』柳生宗矩 『』 『』叶刀舟 『』速水右近 『』新九郎 『』平松忠四郎 『』 『』 『』 受賞 主演男優賞 1963年『』 目次• 概要 [ ] 満4歳になる直前に、歌舞伎の初舞台を踏み、以降39歳までを名乗り、10月に小川家一門がをから「」に代えた1年後の11月、40歳を迎えた時に芸名を萬屋錦之介に改めた。 伯父に、叔父にがいる。 俳優のは弟で、、、、、はそれぞれ甥にあたる。 妻はいずれも女優の(初婚)、(再婚)、(再々婚)。 長男で俳優のと、芸能人ではない次男は淡路の連れ子である。 実子は淡路との間に三男の(元俳優、1990年にバイク事故死)と四男の小川哲史(の芸名で元俳優、2004年に窃盗罪・家宅侵入罪で実刑判決、2010年に自殺 )。 略歴 [ ] 暁星小学校卒、旧制暁星中学校を2年で中退。 初名は 中村 錦之助。 立女形を父に持つの御曹司で、1936年11月歌舞伎座で初舞台。 長兄・種太郎(のち)、次兄・梅枝(のち)、三兄・と同時で、満4歳であった。 女形・立役(男役)ともに務めて歌舞伎界にて役者修業を積んでいた。 特に女形として評価が高かったが、四男であり、歌舞伎界で主役級俳優を目指すのは困難な状況だったが、当時を抱え、ひばりの相手役として若手男優を探していたが着目し、錦之助を映画界にスカウトし、錦之助は転身を考えた。 しかし歌舞伎役者たちからは「映画転出は許さない」と抗議が殺到し、当時のでは「役者たちに歌舞伎・映画両方での活動を許せば、映画で人気を得た若造たちに梨園の秩序をかき乱される」という見方が大勢であり、父の時蔵は「中途半端はいけない。 映画界に行くなら歌舞伎を辞めて行きなさい。 もし映画で失敗しても歌舞伎に戻ることは許さない」と錦之助に決断を迫ったといわれる。 結局錦之助は歌舞伎を断念する道を選び、1953年11月15日歌舞伎座子供かぶき教室『菊畑』の虎蔵実ハ牛若丸を歌舞伎卒業公演として、1954年2月に映画界に転向する。 次々兄のは、錦之助と弟の賀津雄(嘉葎雄)が入りすると、自らも梨園を去って東映のプロデューサーとなり、弟たちを背後から支えた。 波紋を呼んだ錦之助の映画転身であったが、転身を勧めてきたのが、この当時にすでにスターだった美空ひばり側だったことも事態に負の要素となったといわれる。 その証左に、錦之助は映画で名を成してから父を数本の映画に出演させたが、その際に父は特に歌舞伎をやめる必要はなかったことがあげられる。 美空ひばりとの共演作(新芸術プロ作品『ひよどり草紙』)で映画デビューの後、を経て東映に移籍。 同社製作の映画『』に出演し、大ヒットにより一躍スターとなった。 以降はやらと共に映画の看板スターとなり、日本映画界の全盛期を支えた。 『』シリーズ、『』シリーズは当たり役となり、特に役はライフワークとなった。 その明るく気さくで豪快な性格から俳優仲間や裏方のスタッフなど、多くの人たちから「錦兄ィ」(きんにい)「錦ちゃん」と慕われ、親しまれた。 レコード歌手としてもデビューし、「やくざ若衆」「いろは小唄」などの曲をリリースしている。 昭和30年代後半から映画はテレビに人気を奪われ、映画産業が斜陽化の様相を呈するようになった頃から、錦之助はへの進出を図る。 東映俳優労働組合の委員長に就任したが、に内部のを収拾できなかったこともあり東映を退社。 に「中村プロダクション」を設立して独立し、本格的にテレビ時代劇の世界に進出した。 この頃の出演ドラマとして、『』や『』、『』、『』、『』等がある。 1956年の小川家による地方巡業『』『 八段目道行旅路の嫁入』で舞台に復帰。 毎年6月に東京・で定期興行を打っていた。 なお歌舞伎座での興行でありながら、錦之助の演目はほとんどが歌舞伎ではない新作時代劇であり、歌舞伎であっても全てが明治以降に作られたいわゆる「新歌舞伎」であった。 本人も古典・伝統歌舞伎をやるつもりはなく、「子別れ(演目の一つである"重の井子別れ"のこと)なんてできねぇよ」と言っていた。 映画界入り後に舞台をつとめた歌舞伎の演目は次のとおり。 『紅葉狩』(1971)• 『 御浜御殿綱豊卿』(1972)• 真山青果『頼朝の死』(1973、1982)• 真山青果『』(1976)• 『番町皿屋敷』(1974)• 『』(1980、1994)• 『』(1956年地方巡業)• 『 八段目道行旅路の嫁入』(1956年地方巡業、1994)。 復帰狂言『お祭』は、の「待ってました!」掛け声の後に役者が「待っていたとはありがてえ」という、復帰にからめたお馴染みのもの。 『道行旅路の嫁入』は本人は「ごちそう」(特別出演)として一瞬登場するだけである。 最晩年の1994年に演じた『極付幡随長兵衛』の長兵衛役は二代目吉右衛門のを忠実に演じたが、水野役のとは子役時代からの友人である関係から、錦之介は「孝夫ちゃんと一緒にできる」と久々の共演を楽しんでいた。 なお、歌手として「錦ちゃん祭り」というライブ・イベントを各地で開催している。 1971年10月、歌舞伎座の三代目中村時蔵十三回忌追善興行で「小川家」で一門をなすことを宣言し、屋号を萬屋に、定紋を桐蝶に改めた。 翌1972年に自身の芸名も中村錦之助から「 萬屋 錦之介」と改めた。 この際、名を()により「錦之 助」を「錦之 介」と変えている。 1978年公開の映画『』で主演したが、錦之介が12年ぶりに東映に復帰した作品となった。 錦之介演じるの「 夢でござる」という台詞は話題になり 、作品も大ヒットとなった。 1979年、テレビ朝日開局20周年記念番組『』で主演を務めた。 錦之介はに「45歳になったら必ずをやります。 その時は監督をして欲しい」と依頼していたという。 この作品で錦之介は、舞台・映画・テレビの全てで内蔵助を演じたことになった。 1982年、賞受賞。 1982年、中村プロダクションが倒産し、莫大な借金を抱えた。 さらに、歌舞伎公演の最中に倒れ、入院し、と診断され、さらに同年8月には摘出手術をし、同年11月退院。 翌1983年に重症筋無力症を克服した。 1990年、三男の晃廣が事故死。 右目剥離を発病。 1996年、長年の芸能活動を文化庁から表彰される。 同年を発症し、『』の役を降板した。 1997年3月10日午後2時41分、入院先のの東病院でのため死去。 64歳没。 に発表された『』の「・男優編」で日本男優の9位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」も同じく第9位になった。 人物 [ ] 1954年 生前の錦之介を知る人の話を総合すると、相当な凝り性だったようである。 『子連れ狼』でを演じたときには、胴太貫の使い手である一刀に影響されてか、一門の刀コレクションを始め、多い時にはその数が数百本に達したという。 また、占いにも凝っていたらしく、『』のモロボシ・ダン役で知られる森次浩司がに改名したのも、占い好きの彼の助言によるという。 また、自身も方位学に凝り、ひどい時には、方角が悪いといって、のために家に帰らず、ホテルに泊まることもしばしばであったという。 その結果、出身で退団後女優活動をしていたと不倫関係となり、当時の妻と離婚。 甲と再々婚することとなった。 歌舞伎界と別れた後も、いくつかの関わりを持っている。 甥のが襲名披露をする際は、自ら後見人を買って出て口上を述べ、歌舞伎界で後ろ盾のない獅童の力になろうとした。 また、の話によると、梨園の妻であった母親の存在が大きく、錦之介だけでなく、姑である母親の顔色もうかがわねばならなかったという。 また、屋号を萬屋にしたのは、母親の意向が強かったためとも言われている。 世界的スターであるが取締役のが製作する映画の常連であり、三船との共演も多かった。 テレビ時代劇では、錦之介は午後3時までしか撮影しないのが不文律となっており、オープン・セットやロケーションのナイト・シーンは、すべて〈ツブシ〉と呼ばれるで撮られた。 そのため、夜間撮影は錦之介以外のシーンに限られ、実際は殆ど無く、スタッフの間では「早く帰れる」と好評だった。 また、溺愛する息子達が子供だったころ『』の大ファンであり、「父ちゃんは偉い役者だって言うけど、仮面ライダーに出てないじゃないか! 」と言われ、『仮面ライダー』出演を本気でにオファーし、東映のスタッフ達を絶句させた。 当時はこういった大御所の俳優が特撮番組に出演することはあまり前例がなかったため、出演は叶わなかったが、息子達のために、地獄大使を演じていた友人の俳優・に頼んで、その衣装で潮に家に来てもらったことがあるという。 元のとは自宅が近所ということから、家族ぐるみの付き合いをしていた。 一方ではのファンでもあり、阪神の選手とも家族ぐるみの付き合いをしていた。 また、にも登録をしており、に優勝したヨロズハピネスなどを所有していたことでも知られる。 が後に語っていたところによると、錦之介が亡くなったことを知ったが「俺の兄弟の一人がいなくなってしまった」と語り、癌で闘病中だった自らの体調の悪化もあって錦之介の葬儀への参列を果たせずに残念がっていたという。 勝は錦之介が死去したわずか3か月後に他界している。 屋号「萬屋」 [ ] はに新しく制定した小川家の屋号である。 もともとは、小川かめ(嘉女)の生家「小川吉右衛門」家(屋号「萬屋」)にちなんだものである。 小川吉右衛門家は、「萬屋」という屋号で代々のをしていた。 つまり歌舞伎の関係者であった。 小川吉右衛門の娘であるかめは、三代目中村歌六の妻であり、初代中村吉右衛門(波野家を継ぐ)、三代目時蔵(小川家を継ぐ)の母であり、錦之介ら小川家5兄弟の祖母である。 次男三代目時蔵のみあえて母の実家の姓を名乗った。 三代目時蔵はそればかりでなく、小川家ごと「播磨屋」を脱して単独で屋号「萬屋」を名乗りたい意向を持っていたが、自身は果たせなかった。 錦之介ら遺児たちが1971年に「萬屋」を名乗ったのは、両家がもはや一門をなさないという主張であり、吉右衛門家への対抗意識による。 「萬屋」はそもそも中村吉右衛門家・小川家共通のルーツである。 このことは中村吉右衛門家も強く意識していた。 は初名を中村萬之助と名乗った。 また吉右衛門の弟子筋にも「萬(万)」の字をつけさせた(中村万之丞など)。 しかし、小川家が「萬屋」となった後は、中村吉右衛門家は「萬」の字を使わないようになったのである(例:中村万之丞は中村吉之丞と改めた)。 しかし9月、前年にが他界したため、本家ともいえる播磨屋が二代目吉右衛門とその門弟だけになるという状況となり、播磨屋の衰退を危惧したとの兄弟一門は、ふたたび屋号を播磨屋に戻している。 名跡「中村錦之助」 [ ] 錦之助は生前、母・小川ひなから、父や早世した兄の名跡である「中村時蔵」を襲名してその五代目となるように再三懇願されたが、本人は拒否を貫いた。 錦之助の名は本名の「錦一」に由来するもので、過去での歌舞伎に由来を持たない、まったく本人独自のものである。 もちろん初代である。 この名を歌舞伎・映画俳優時代を通じて名乗り続け、1972年に萬屋錦之介と改名した。 彼の息子は歌舞伎界には入らず、映画界に入ったものの大成せず、三男は交通事故死、四男が不祥事の末に自殺という結末だった。 そうとなれば、「中村錦之助」を名跡として復活させるには他人が名乗るしかない。 しかし、この名は歌舞伎・松竹から離れ映画界に転じてから、しかも映画・舞台の興行会社として松竹とは競合関係にある東映で大成した名である。 それゆえに、歌舞伎を仕切る松竹がタッチしたがらない名前、いわば的な存在である、と長らく言われ続けていた。 歌舞伎における軽い位置づけと裏腹に、映画界ではこの名の存在感があまりに重過ぎるため、このこともまた名跡復活にあたって壁になるかもしれないという懸念も長らく囁かれていた。 結局「中村錦之助」の名は、死後10年経った2007年4月2日、東京の大歌舞伎興行で、兄・の次男で、自身の甥である が、『鬼一法眼三略巻・菊畑』の虎蔵実は牛若丸と『双蝶々曲輪日記・角力場(すもうば)』の長吉、与五郎で二代目錦之助を襲名した。 「菊畑」の虎蔵実は牛若丸は初代が歌舞伎役者時代、最後に務めたゆかりある役どころである。 二代目錦之助はこの「錦之助」の名跡を「 歌舞伎では大したことのない名前」と語る。 「中村錦之助」という名は前述の通り映画界では威厳ある名前であるが、歌舞伎界においては全く軽いものである。 しかし二代目は「(映画界において大成した) 中村錦之助という名を歌舞伎に戻すのが私の役割」と語る。 まさに前例がない試みであり、二代目にとってみても生涯挑むべき目標とも言える。 萬屋は新興の一門であるにもかかわらず、男子に恵まれており、歌舞伎俳優となった者も多かったことから、「錦之助」以外のゆかりある名跡や名前は現在も全て使われている。 出演作品 [ ] 映画 [ ]• 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1954. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1955. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1956. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1957. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1958. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1959. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1960. 1961. 1961. 1961. 1961. 1961. 1961. 1961. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1962. 1963. 1963. 1963. 制作:東映京都• 1963. 1963. 1963. 1964. 1964. 1964. 1964. 1965. 1965. 1965. 1965. 1965. 1966. 1966. 1966. 1968. 1969. 制作:三船プロ 役名:• 1969. 1969. 1969. 1969. 1970. 1970. 1970. 1971. 1971. 1978. 1978. 1979. 1979. 1980. 1981. 制作:東映京都• 1981. 1982. 1985. 1989. 制作:西友 役名: テレビドラマ [ ]• (1966年、NET)• いのち (1966年、NET)• (1966年、TBS)• 真田幸村 (1966年、TBS)• (1968年、NTV)• (1969年、ABC)• (1971年) - 役• (1994年) - 役• (1971年、NET) - 役• ( ) - 速水竜之進 役• (1973年、NET)• 第15、16話 「」• 第26話 「直八子供旅」• (1973年、NET)• ( - ) - 役• ( - NET) - 叶刀舟 役• ( NTV) - 平松忠四郎 役• (1977年 ) - 速水右近 役• (1978年、KTV) - 役• ( - ANB) - 新九郎 役• ( ANB) - 大石内蔵助 役• ( - ANB) - 役• () - 役• () - 役• ( - CX) - 朝日奈河内守正清 役• (1981年、フジテレビ) - 小関十太夫 役• (1982年 TX) - 柳生宗矩 役• お春捕物日記〜危うし! 大岡越前 (1982年、フジテレビ) - 役• (1984年、フジテレビ) - 拝一刀 役• (1984年、フジテレビ)• ( ) - 役• ( NHK)• (1987年 NTV) - 役• ( NTV) - 笹野弥三郎 役• (1989年 TBS) - 新出去定 役• スペシャル「江戸は燃えているか! 加賀百万石の陰謀」(1990年 テレビ朝日) - 日向内記 役• (1991年 ANB)• (1991年 CX) - 雲霧仁左衛門 役• (1992 CX) - 煙の富蔵 役• 鬼麿斬人剣 (1995年 ANB・東映) - 源清麿 役• (1996年 TX) - 卯助 役• (1996年、) CM [ ]• - 脚注 [ ] 注釈 [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2017年8月)• 萬屋錦之介 『わが人生 みち 悔いなくおごりなく』 出版局、1995年• 『萬屋錦之介 芸道六十年回顧写真集』 東京新聞出版局、1997年-錦之介本人が企画したが、図らずも追悼出版となった• 錦之介映画研究会編 『中村錦之助 東映黄金時代』 、1997年-追悼出版• 錦之助映画ファンの会編 『一心錦之助 オマージュ中村錦之助・萬屋錦之介』 、2009年• 『萬屋錦之介』 、1978年-中村プロ監修の写真集• 島英津夫 『親父の涙 萬屋錦之介』 、 関連人物 [ ]• :映画、テレビドラマでを主演。 :脚本家・監督、師であった• 外部リンク [ ]• - (英語)•

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